金峯山の思い出
尾崎喜八
金泉湯の若いおかみさんは
どこか艶だがりんとしていたな。
金山ではぴかぴか稲光りの飛ぶなかで
雨傘さして鉄砲風呂へはいったな。
きれいな翌朝
外厠を栗毛の牝馬がのぞきに来たな。
端牆てっぺんの岩登りに山案内の千代一が
四十を越したでおら止めだとかぶりを振ったな。
それにしても朝日のさしこむ本谷川の
あの噎せかえるような新緑を思い出すな。
ひっそり藤の咲く桂平の岩へとまって
川鴉がヴィッ・ヴィッと鳴いていたな。
松平牧場のちらちらする白樺のあいだから
ぽうとかすんだ雲母刷の空の奥に
八ガ岳がまるで薄青い夢だったな。
富士見平で富士を見ながら水を飲んだな。
そうしかんばのそばに湧く
つめたいきれいな水だったな。
大日小屋でくさやの干物を焼いていると
あたまの上でほととぎすが鳴いたな。
長い陰気な横八町縦八町の登りだったな。
尾根へ出たら目が覚めたようで、
筒ぬけの空にくらっとしたな。
もう其処では暑さと寒さとが縞になっていたな。
真白な岩稜づたいの砂払いから児の吹上、
けさ国師の小屋を立って来たという
四人連れの一行にひょっこり遭ったな。
それからとうとうてっぺんだったな。
天のほうが近かったな。
二人きりだったな。
なんだか人間をもう一皮脱ぎたいような気がしたな。
とにかく胸をはだけて涼しい大きな谷風に
汗みずくのシャツを帆のように脹らませたな。
シャツがはたはたと鳴ったな。
だが髪の毛が逆立ったのは
風のせいばかりでもなかったな。
それから五丈石の下へうずくまって
ハンケチの端で珈琲を濾したな。
思い出せば何もかもたのしいな。
その六月がまた来るな。
だがなかなか山へ行くどころの騒ぎではないな。
千代一もとても食っては行けないといっていたな。
東京に伜の人足の口は無いかと訊いていたな。
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