夕べの泉 
         (Hermann Hesse gewidmet)

                        尾崎喜八

  君から飲む、
  ほのぐらい山の泉よ、
  こんこんと湧きこぼれて
  滑らかな苔むす岩を洗うものよ。

  存分な仕事の一日のあとで、
  わたしは身をまげて荒い渇望の唇を君につける、
  天心の深さを沈めた君の夕暮の水に、
  その透徹した、甘美な、れいろうの水に。

  君のさわやかな満溢と流動との上には
  嵐のあとの青ざめた金色の平和がある。
  神の休戦の夕べの旗が一すじ、
  とおく薔薇いろの峯から峯へ流れている。

  千百の予感が、日の終りには
  ことに君の胸を高まらせる。
  その湧きあまる思想の歌をひびかせながら、
  君は青みわたる夜の幽暗におのれを与える。

  君から飲む、
  あすの曙光をはらむ甘やかな夕べの泉よ。
  その懐妊と分娩との豊かな生の脈動を
  暗く涼しい苔にひざまずいて干すようにわたしは飲む。

                   (ヘルマン・ヘッセに)


 


「旅と滞在」目次へ / 詩人尾崎喜八の紹介トップページへ / 煦明塾トップページへ 
注)苔 コケ/存分 ゾンブン/透徹 トウテツ/満溢 マンイツ金色 コンジキ
薔薇
バラ/峯 ミネ/幽暗 ユウアン/曙光 ショコウ