友
尾崎喜八
私は君と旅をした。
六月、栃の花咲く岨路をゆき、
山の峠で展望し、
新緑の谷間の温泉に身を沈めた。
わたし達は暗い林間で清水を飲み、
ルックサックを開いて健康に食い、
深山の真昼をほがらかに鳴く、
遠い、近い、筒鳥を聴いた。
わたし達は山嶺の日光を頭から浴びた。
わたし達は芳烈な山気を全肉身にたきこめた。
わたし達は薄赤い地熱の放射に照らされた。
わたし達は変貌した。
今、旅から帰って、生活と仕事とに、
全く新しい一歩を踏み出そうとしながら、
わたしは遠ざかった山々の父らしい合図を心に聴く。
しかし今日は立ちどまって君を思う、至愛の友よ。
君の存在と共に結局はいつか亡びるもの、
君に属するものの中で最も脆いはかない部分、
そしておそらくは最も美しい部分、
君の此の世の姿と、雰囲気と、その生活法とをわたしは見た。
生命を形に托す君の仕事は
それ自身ひとつの永遠を生きるだろう。
それはいい。しかし君の存在の夏の紅、
生活そのものである傑作を幾人の者が記憶するか。
その美の脆いことが時にわたしを涙ぐませた。
しかし脆い美がわたしに一層深く君を愛させた。
友よ、わたしは君の「人間」のにおいに触れた、
あそこで、あの折れ重なる山々の間で。
(高村光太郎君に)
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