追憶
尾崎喜八
今はむかし、ある年の武蔵野で、
七月、
熱いうっとりするような空気の波に
一抱えもある新緑の樫がそよいでいた。
君はそのすばらしい樹木を
画布のまんなかで捕らえながら、
気も遠くなるような海青色を
枝の間に置いたのだった。
僕は少し離れた樹の蔭の
暑さに萎えた草の上に身をよこたえて、
無為の白昼がかすかに歌う
あの超絶の歌を聴いていた。
君は火の消えた巻烟草の端をくたくたに噛み、
それを吐き出すことも忘れて、
樹木と天空との驚くべき関係を見つめては、
輝くような絵具を合せた。
燃える大気を涼しくして、
とおくの森から郭公の歌がひびいた。
かわせみが一文字に飛んでゆくところに、
小川がセロの音をゆるやかに流れていた。
僕が言い出した事を君もちょうど考えていたのだ。
僕らは同じ心で思い出していたのだ、
僕らの「パストーラル」を、
あの夏の日の聖なる夢を。
その間にも太陽の旅につれて
大きな影が風景の上を移りうごいた。
それは過ぎゆく世紀のようなものだった。
偉大な瞬間が次々と生まれてはすべって行った。
*
ああ! かしこ、僕らの昔の夏の楽園で、
今、あの樫は凋落の冬の風に立っている。
君が愛撫した樹皮の下でもう年輪が三つふえ、
葉むらの冠りも大きさを増した。
それは、冬が来て、
たずねる人もない夜の広大な野の中で、
天のカシオペイアに触れている。
しかし、もう君はこの世にはいない。
君はもうこの世にいない。しかし
君のために時間というものが無くなった今では、
君はあらゆる季節とその思い出とを身につけて、
遠慮もなく僕の追憶の中へやって来る。
君は夜更けの火鉢に手をかざす僕に
七月の森の郭公を聴かせ、
藪の木の実が匂いをはなつ秋の日に、
十二月の午後に降り出すあの雪のさらさらを聴かせる。
君がいつでも自然の中にいるのだという考えは
僕のうちで君を美しい不滅の者にする。
君はあんなにも自然に傾倒した、
そして死によって全くそれにまじりこんだ。
そして僕のうちに生活し、
君を懐かしく思い出す誰のうちにでも生活し、
地上のあらゆる覊絆から脱却して、
人間の優しい追憶の中で全く自由になったのだ。
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