新戦場 
                      尾崎喜八

  われわれはもう何者でもないだろう、
  他人にも、かつてあった自分にも。

  あの死の瞬間に、
  できるものならもう一度この足で立ち上がって、
  どこか知らない水と森との清涼な未開の国で、
  全く新しく生き直したいと思うほど
  この世がなつかしく美しく見えたのだが、
  別の真実が
  仰ぎ見させる白い光で現れたのだが……
  もう取り返しのつかない砕かれた頭、
  穴のあいた、みじめな胸。
  これがかつてそれぞれの
  労苦の母の最愛のものだった。

  たましいの奥底では、
  絶えず善くなろうと思い、
  人らしく、正しく、美しく生きようと願って
  その準備もしていたのだが……

  熱い、大きなそよかぜに吹かれて
  ようやく茂る夏草に埋もれる身が、
  死んだ後までも憎んだり呪ったりすることを、
  生きている他人から期待されるのは厭だ。

  われわれを護国の鬼などと云うのはやめてくれ。
  本当はすでに互いに忘れていながら、
  奉仕し、奉仕されたと思おうとするのは嘘だ。
  われわれはもう君たちの寄託からは自由だ。
  異郷の夏の草よりも風よりも遠く、
  もう金輪際
  君たちとは無関係だ。





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注)仰ぎ アオギ/善く ヨク呪ったり ノロッタリ/厭 イヤ/護国 ゴコク金輪際 コンリンザイ