故地の花 
                  (妻に)

                      尾崎喜八

  山の田圃を見おろして行くあの細みちの
  あの同じ場所一面に、
  ことしの夏もかわらずに
  この伊吹麝香草はこぼれるように咲いていた。

  私たちにななたびの
  なつかしい夏の思い出の草は、
  つぶつぶの葉、針金のような蔓、
  薄紫のこまかな花をこまかに綴って、
  摘めばつんと鼻をうつ
  爽やかな匂いの霧を噴くのだった。

  押葉となって手紙の中に萎えてはいるが、
  この高原故地の花の発する
  まだ消えやらぬ夏の匂いは、
  誠実な心のように、歌のように、
  あわれ流寓七年の永いよしみを囁いて、
  梅雨も上がった炎熱の東京で
  お前の汗まじりの涙を呼ぶには充分だろう。


 


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注)故地 コチ/田圃 タンボ/伊吹麝香草 イブキ ジャコウソウ/蔓 ツル
綴って
ツヅッテ/摘めば ツメバ/爽やかな サワヤカナ/噴く ハク
押葉
オシバ/萎えて ナエテ/流寓 リュウグウ/囁いて ササヤイテ
梅雨 ツユ/炎熱 エンネツ