杖突峠
尾崎喜八
春は茫々、山上の空、
なんにも無いのがじつにいい。
書物もなければ新聞もなく、
時局談義も とやかくうるさい芸術論もない。
頭をまわせば銀の残雪を蜘蛛手に懸けた
青い八ガ岳も蓼科ももちろん出ている。
腹這いになって首をのばせば、
画のような汀に抱かれた春の諏訪湖も
ちらちらと芽木のあいだに見れば見える。
木曾駒は伊那盆地の霞のうえ、
槍や穂高の北アルプスは
リラ色の安曇の空に遠く浮かぶ。
それはみんなわかっている。
わかっているが、目をほそくして 仰向いて、
無限無窮の此のまっさおな大空を
じっと見ているのがじつにいい。
どこかで鳴いているあおじの歌、
頬に触れる翁草やあずまぎく、
此の世の毀誉褒貶をすっきりとぬきんでた
海抜四千尺の春の峠、
杖突峠の草原で腕を枕に空を見ている。
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