散 文 |
「山の絵本」より |
※ルビは「語の直後に小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています。
絵のように
たてしなの歌
君の土地。それは無数の輻射谷に刻まれて八方に足を伸ばした、やはり火山そのものの肢体の上の耕地であろうか。或いはもっと古く、埋積し、隆起した太古の湖底の開析平野と、その水田に、今、晩夏の風が青々と吹きわたる河成段丘のきざはしであろうか。 * 一天晴れて日は暖かい。物みな明潔な山地田園の八月の末。胡麻がみのり、玉蜀黍が金に笑みわれ、雁来紅の赤や黄の傍で、懸けつらねた干瓢が白い。この土地で高蜻蛉たかとんぼと呼ぶ薄羽黄蜻蛉の群が、道路の上の空間の或る高さで往ったり来たりしている。 * 二人の息子が東京からの客人と蓼科山へ登るという日の朝早く、まだ東の丘の上に大きな「天狼シリウス」がうろついている頃、もう年とった母親は目ざとく覚めて、薄暗い広い台所で朝の支度に取りかかる。 * 丘の上の見晴しで、何本かの背の高いポプラーに囲まれた小学校、すがすがしい光の射し込む朝の室の、卓に置かれたヴァイオリンの函のような小学校。あれが君たちの学校だったのか。 * ところで、蓼科の登路を敍述するのは私の今日の目的ではないが、多くは南乃至東側から登られている此の山を、こちら側から、すなわち湯沢や望月の側から登ったり其の方面へ降りたりする人たちのために、私はこの「歌」の間ヘー章のやや記述的なインテルメッツォーを挾んで置こうと思う。むろん蓼科牧場事務所を起点として、約五時間で往復する行程がもっとも短くもっとも楽には相違ないが。 * 高原とは何であろうか。「高原とは水平に近い面を有する山地である」と私の初歩の自然地理学の本が教える。その例はと見れば、イラン高原、アラビア高原、コロラド高原…… * 夕方下山して、牧場事務所を探しあてたのが既にかなり晩かったから、牛乳を入れる罐のような亜鉛とたんの風呂桶で入浴をすませ、若い無口な牧夫が給仕をしてくれる夜食をとり、しきり無しに茶をついでもてなす主任伊藤氏との炉を囲んでの一時間余の話も終ると、もう九時を廻っていた。 * 朝、眼が覚めかかるあの瞬間には、其処を常のわが家だと思った。しかしそれに続く覚醒の瞬間に、私の片腕は伸ばされて白金巾のカーテンはさっと引かれた。ああ、朝の山! あふ坂の関の岩かど踏みならし 嵯峨の山千代のふる道跡とめて などという歌が、都びとの心に一種異国的な清新な情緒を与えていた時代であったかも知れぬ。ともかくもそういう昔、蓼科山から生れて千曲川にそそぐ角間の流れに隔てられたこの二つの御牧には、無数の馬が晴れた夜の星のように放たれていた。 * いい朝だ。もうみんな起きている。昨夜の薄暗いランプの火影では幾らかノクターナルに瞑想的に見えた主任伊藤さんの顔が、今朝は晴やかに笑って如何にも牧場の人らしく見える。若い牧夫君も「メエ・メエ」鳴く山羊を放したり、食事の支度をしたりしている。 * 爽勁な初秋の天の下、しみじみと身にしむような高原の日光と風との中で、蓼科農場五町歩の馬鈴薯が葉をうごかし、その地下茎をふとらせている。彼らは菅平ですでに名高いその兄弟たちの後を追って、優秀な種芋として新らしい名声を博さなければならないと云う重費を担っている。 * 堰せんぎの水が流れている。時の流れのように休みもなく。高原の物凄い大きな夜も、ひろびろと明るい寂しい昼も、急ぐともなく、急がぬともなく、ほとんど常に同じ速さで。 * 私の愛の「蓼科の歌」、それを残らず私は歌ってしまったろうか。もうこれで種切れだろうか。いや、決して! 然し、いま私は疲れている。 (昭和九年作) |
念場ガ原・野辺山ノ原
「それは軍隊を持たない征服者。しかしたった一人での征服者。彼は万人に語る 百観音自動車株式会社の定期乗合バスが、中央線韮崎駅から佐久往還を北上して長沢まで通じているということは、鉄道省編纂の汽車時間表にも拘らず、昭和七年十月八日には、全く嘘ではないまでも、少くとも真に本当ではなかった。 * バスが使い古された腰に爆音を満たして、営々と登りつめた箕輪、それから新町。「此処までで御座います」と云われてガッチリと車を降りる。昨夜の夜半から曲げられていた膝が喜んでいる。その膝は、先ず後方へ伸びるだげ伸ばされて、やがて膝関節のうしろあたりで「ピチン」と云う。これでいい。僕はこの音を、縒れ合っていた腱か何かが元通りになるときの音だとふだんから思っている。 * 向うからお婆さんがやって来る。お婆さんの背中の背負籠にはもう朝飯前の一仕事の松葉や枯枝がいっぱいである。働かずには飯を食わないつもりらしい。 * 長沢部落は大門川と川俣川との合流点の南西約三百メートルの辺にある。「八ガ岳」図幅で見ると九四四メートルの最高点を持つ一箇の楕円形の丘陵が、ヨメガカサと呼ばれるパテルラ科に属する一種の貝を伏せたように、その長軸を南北の方向にして横たわっている。川俣・大門の二つの水を合せた須玉川は、この丘陵の東の縁辺をきっかり縁取るようにして南流する。一方丘陵の西の縁辺は、前章の最後に述べた長い階段状の稲田を裳もすそのように廻らして、直ちに権現岳の南南東井出ガ原の大斜面に対している。つまり此の丘陵は、南下する川俣川に対して真正面から打ち込まれた一箇の楔のように見える。楔の尖った頭を真向から受けた川俣川は、してみれば、これを避けてしかもなお南下するためには、現在のように左して大門川に合しなくても、むしろ独自の方向を取って、すなわち右からこの丘陵を迂廻してもよかった筈である。長沢の稲田の階段状をした細長い面白い地形が、僕の興味を喚起したのも此の点にある。ことによると、かつて川俣川は、今日稲田になっている此の地域を流れていたところが、上流地方の隆起か大門川流路の沈降か、或いは彼の誘拐に遭ったかして、以前の流路を見捨てて、僅かの距離を流れている大門川に合してしまったのではなかろうか。そしてその廃墟の上に長沢の稲田は作られたのではなかろうか。こういう臆測が僕の興味であった。僕は早速問題の稲田を正面にして、ほとんど其の長軸を貫くような方向からカメラを立てた。自分の地形学や人文地理学的写真の資料が、此処で一枚出来るのだと思うと、写真も学問も共に一年生だけに、その得意さ、その嬉しさは並ならぬものであった。僕は焦点ガラスに映る光景に陶然と酔った。 * 僕は長沢の部落を通る。僕の通る長沢の部落が彼らの朝の眼で僕を見る。僕は僕の通らねばならぬ人目の関の長いことを惧れる。 * つきのき橋で川俣川を左岸へ渡る。自然の中の水らしい水の眺めに、歩き出してから今初めて逢うのである。谷の両岸は相当に開けて明るいのに、河床そのものは、殊に橋の下手では、暗く深く刳られて、水は左へ左へとぐいぐい突込むように捻れながら流れている。橋の上へ立って、黄や赤に色づいた谷間の錦繍の下かげをうねる水の素絹の行衛を見ていると、どうやら其の流路に沿って地質の最弱線が通っているのではないかという気がする。つきのき橋の「つきのき」は、して見れば月の木か、槻の木か、それとも飛躍して「突き抜き」か。しかし此処では槻の木が最も妥当らしく思われる。 おお、お前は上の路を行き、 僕は「ロッホ・ローモンド」をロずさみながら勢よく進んだ。進むにつれて一歩一歩、鳳凰・甲斐駒がせり出して来た。 「弘法水を経て念場ガ原にかかると、落葉松の枝端を飾るエメラルド・グリーン ところで僕の旅では季節もすでに十月で、落葉松の枝には漸く秋のシトロン黄が流れ、山躑躅・蓮華躑躅の一属は革細工のような蒴果の口をあけ、藤は蔓ばかり、棠梨ずみは黄熟した小球果をつけ、時鳥・郭公らの夏鳥は梢に来鳴かず、ただおりおり耳底に沁み入るような菊戴きくいただきの細い囀りと、人間を警戒する四十雀の鋭い声とを聴くばかりなのも是非が無い。あまつさえ空は刻々雲量を増して、金峰・甲斐駒・鳳凰なんどは無論のこと、今ではその裾野を僕の行く肝心の八ガ岳さえ頭を見せぬ始末である。 * 道が八ガ岳山麓高原のそれも徐々に開析の進んだ大小の幅射谷の下流近くを行くのだから、小さな橋の架っている処では何時でも同じような地形、同じような場所に出逢う。 * 「国界」とは何時の頃から誰によって呼ばれた名だろうか。しかしその起源は古いにせよ、新らしいにせよ、人の心に広々とした人間的ユメーンな感情を起させる此の名は僕に好ましい。 * 四五町行くともう一軒、家があった。これも明け放した座敷の中に若い女が三四人いて、此方を見ている。裁縫の稽古所かとも思ったが、こんな場所にそんなものの有ろうはずはなく、疑問のままで通り過ぎた。道が下りになっていよいよ大門川を渡る。その手前左手の小高いところに地図にも有るとおり、本当の国境の界標が立っていた。それは風雨に曝された古い柱で、文字の形さえ見えなかった。大門橋も朽ちかけた橋板がしらじらと反そって、踏んで渡れば鈍い荒涼の響きを立てた。 Über allen Gipfeln 思い出を残して歩け。すべての場所について一つびとつの回想を持つがいい。それは他人から奪い取ること無しにお前が富む唯一の方法なのだ。冬の都会の意地悪い夜々に、それは忽ち至福の光をまとってお前に現れ、悲しい落魄の時に、優しかった母や姉らのように、お前の傍らへ来て、過ぎ去った日の数々の幸福でお前の心を暖めるだろう。 * 道が登りになって落葉松の植林の中へ入る。子供が多勢二頭の山羊を相手に遊んでいる。里に近いことが知られる。やがて右手に白樺の林が現れ、下り坂になり、道路の修繕をしている村人たちに挨拶をしながら通りすぎると、部落、橋。板橋である。 (昭和七年作) |
花崗岩の国のイマージュ
1 朝日を透いて緑も涼しい若葉のトンネル。路や丸木橋とすれすれに踊り、ざわめき、歌う水。光の縞。流れの紋様。小鳥のさえずり。金峯きんぷ山麓本谷川ほんたにがわの六月の朝である。 2 金山から見る金峯山と瑞牆山の大観、有井益次郎の家の小さい牧場の柵にもたれて、柔かな朝の眼がしみじみとそれを眺める。 3 簡単な中食やら湯沸しやらを小さく一纒めにして長市に背負わせると、すっかり身軽になってステッキ一本、河田君は写真機を肩からぶらさげて、「ではまた晩に」と、午前九時、有井の家を出発する。朝日のあたった縁側で、誰かが山から折って来たのか、石南花の花が紅かった。 4 里宮からは直ぐに尾根になって、ゆるい登りが四五町つづいた。濶葉樹の林がおわると富士見平の明るい草原の斜面である。北と東には直ちに黒木の密林がせまっているが、南から西へひらけた眺望は、さすが一八〇〇メートルの高みだけに、なかなか見事だ。富士見平の名の拠って起こった富士山は、厖大な高見岩の右手に漂渺と姿を現わしているが、逆光とヘイズとのためにただ夢のように淡く天に懸っている。富士から右へ甲府盆地、そのきらめく霞を背景に、土賊峠・黒富士・茅ガ岳なんどの強剛が肩をならべて屯たむろする。その右には、遥かにとおい大気の奥から生れたような南アルプスの連峯が、正しくパースペクティヴをなして蜿蜒と北に伸びている。中でも美しいのは連峯中もっとも近い甲斐駒で、爽かな新緑の枝をかざす二三本の草紙樺を前景にして、その悲劇的な雄渾な山容は、私をして率然「ワルドシュタイン」のソナタを思い出させた。それから右には八ガ岳。つづいて直ぐ眼の前にこれから登るべき瑞牆山の岩峯群。しかし視野をずっと小さくすると、眼下ショノドノ沢のくぼみを縦に見て、そのはずれに金山部落の開墾地が山を背負ってぽつんと一つ、このあたりに唯一の生活風景を点じているのが可憐であった。 瑞牆山南面のこの登路は、一種のクウロワールを攀じるものだと云えば云えるだろう。頂上まで九分どおりは、密生する針葉樹と岩石とに遮られて左右の模様がほとんど分らないが、やがて頂上近く子負岩おおぶいわ・大鑢おおやすりというような岩塔が現れる頃からは、ときどき眼界も開けて来、そのあたりから見下ろすと、いま登って来た路は二つの岩稜の間へ深くまっすぐに食い込んでいて、おまけにその部分だけ特に黒々と樹木を塡物つめものにしている有様は、水の侵蝕と岩石片の削磨との特別に強く働いた岩溝の地形をあらわしている。私は春の瑞牆を知らないが、雪はかなりおそくまで其処に残っているのではないかと思われる。 5 山頂を二分するギャップから、私たちの降路は北へむかった。アマドリ沢から釜瀬谷へ、山体を南北に乗越したのである。 6 不動ノ滝からは降りもずっと緩やかになって、ほとんど平地を行くのと変りがなかった。路は釜瀬川に沿ってその左岸についていた。左手に空を抜いて立っている十一面石と云うお供餅のような岩峯を見上げると、やがて右岸に黒岩とかいう岩壁が現れ、いつか路が登りになって川を離れると、私たちはちょっとした尾根の上を歩いていることに気がついた。そして最後に富士石という尖峯をうしろにすると、初めてひろびろとした空の下へ出た。 7 朝五時に目がさめた。寝ぼけ眼をこすりながら外へ出る。 人は美なりとはやせども、 幼い、犯しがたい貞潔が、そう答えているように私には思われた。 8 家族の人たちに庭先まで見送られて、午前六時半、われわれは金山を後にした。 9 大日小屋へ着いたのは、それから五十分後と私の手帳には書いてある。しかし此の五十分は中中にあなどり難いものであった。 10 大日小屋からは又しばらく密林の中の登りが続いた。いわゆる縦八丁である。私は此処でも前記の克己的方法を実行してみた。そして次のような自家川のメトードを案出した。 11 午後一時十分前、ついに五丈石の脚下へ立った。 12 金峯山南の斜面は傾斜すこぶる急であった。 (昭和九年作) |
神津牧場の組曲
五月の夜の終列車は、深夜の高崎・安中をすぎると、やがて信濃の高原で迎えるべき朝のほうへ営々として這い登っていた。 * 広々と平坦な軽井沢南方の原を横断して、馬取まとりあたりから緩やかに登りつくした峠の頂上へ立つ時、また其処から七曲リの急坂を高立の部落へ向けて降りかかる時、ただ見る眼下一帯の風景に驚異と歎賞との眼をみはらぬ者はまずあるまい。 * 私はつかつかと牧場の柵の中へはいって行った。 * 昼飯のパンヘはこの牧場自慢のバターを厚く塗って食った。東京から持参の珈琲には、これも今しがた出来たばかりだという濃厚なクリームを沢山入れて、本当のカフェー・ア・ラ・クレームを手製した。咽喉がかわくので牛乳を頼んだら、 * 母屋の二階の縁側で、私は籐椅子にくつろいで煙草に火をつける。私の前には灰皿を置いた一箇の古い小さい卓がある。その上に牧場の桜草をいっぱいに挿した硝子のコップが載っている。これは今日朝のうちに私が此処へ到着して部屋がきまると、管理人の竹村氏が自分で持って来て置いていった花である。見ているうちに、この桜草がその場の一種の雰囲気から、マチスの「金魚」の絵を思い出させる。 * 母屋の横を一筋の路が降りてゆく。物見山の東の山腹や南方の斜面にひろびろと展開した牧場一帯への通路である。その路が降って再び登りになろうとする処に、何かひそひそ囁いているような小さな流れがある。五月の下旬、その流れのふち、囁きの上で、一本の小梨の大木が真白な花の雲をかざしている。 * 一日を野山で遊び暮して帰って来た牛たちが、今はその寄宿舎の中でどんな風にしているだろうかという好奇心に誘われて、私は下駄をつっかけて見に出かける。 * 神津牧場 牧場管理人のいかめしい顔のまんなかで、 「香坂峠から尾根伝いで八風山へは、路もついているにはいますが、藪がひどいそうですから御止めになったらいかがです。それに今日はどうやら風が出そうですし」というのが、土間の食堂での朝飯の折の竹村さんの意見だった。なるほど陽は射しているが、空の色にはどことなく荒んだものがあった。 Je suis venu vers toi, de mon pays
lointain, 「余は我が魂と運命とをひっさげて、 大きな真昼だった。折り敷いた草の中でイブキジャコウソウがにおい、筒鳥の声が麓の谷にこだましていた。 (昭和七年作) |
御所平と信州峠
午前六時十五分といえば、一月三日では日の出までまだ半時間の余も間のある中央線小淵沢の停車場で、東京からの夜行列車を捨てた私たち二人は、小海南線の小さな一番列車が待っている向側のプラットフォームヘ、かつかつと鋲靴を鳴らしながら凍てついた雪の線路を横断した。 * 陸地測量部の地図には未だ鉄道の記入が無いが、現在の終点清里駅は、八ガ岳赤岳が南西へその長い裳を垂れた念場ガ原の下手、ほぼ一二二〇メートルの等高線附近にあたっている。私たちは其処で下車した。 * * 一里むこうの大深山おおみやまはまだ華やかな夕陽ひだが。 * 一月四日、今日はいよいよ名にのみ聞いて見るのはこれが初めての信州峠を越える日だ。風は千曲川を吹きおろして来る東寄りの軟風。きのうにくらべれば余程暖かい。床をはなれて二階の縁から眺めると、八ガ岳は破墨の雲に中腹以上を隠されている。頭上の天は高積雲のだんだら。気温も雲向も風向もすべて条件が悪いので、深雪をざぶざぶ溶かす峠の雨に遭っては困るなと、気を揉みながら宿を出た。 * 地図にある信州峠、これを信州側では小尾おび峠といい、甲州側ではしばしば川上峠と呼んでいる。蓋し北すれば信州南佐久郡川上村へ、南すれば甲州北巨摩郡増富村小尾へと通う、彼らの古い交通路によこたわる峠だからであろう。海抜一四六四メートルのその頂上には小さい石塔が立ち、手向けの石が積まれ、牧柵の柱が傾き、クラストした雪は足を裏切って、国境の風は膚を裂くように冷めたい。 Flow gently, sweet Afton, そして私は、今遠い北海道にいる河田君との四年前の旅を痛切に思い出し、また現在私とならんで宿の前の坂道を登っている弟、今度の旅を私と一緒に完成した愛する弟、やがてはこれもまた美しい思い出の中の一人となるべき弟を顧みながら、女中たちが駈け出して出迎える津金楼の玄関の硝子戸をあけた。 (昭和十年作) |
大蔵高丸・大谷ガ丸
午前三時半初鹿野で下車。笹子トンネルの饐すえたような蒸れくさい匂いがこもっている仄暗い車内の、真夜中じみたいくつかの無表情な顔に見送られながら。 日川につかわへくだる水野田あたり、或いはランターン、或いは懐中電燈が、路に散りしいた八重桜の花びらを照らし出す。たった一人見馴れぬ照明具を持っている者がある。それは小さい蝙蝠傘に似ていて、さすように押せばすなわち提灯になるのである。便利ではあるが、形には未だ洗練が足りない。多勢で行く時には普段知らないさまざまな物が飛出して来る。それが屢ゞじつによく持主の生活の趣味を体している。それどころか余り持主にぴったりし過ぎていて、まるで彼自身の一部のように見える時さえある。それらをすべて好意をもって眺めることのできるのは、恐らく旅における寛容の極めて自然なはたらきであろう。どうか物にこだわらぬ此の寛容が、常の私を薫陶して呉れればいい…… 坂をくだって大石の磊々としたところで日川につかわを左岸へわたる。昼間ならば、この美しい谷のなかでの唯一の浅薄な、平凡な箇所である。下流に出来た水力発電所のために水が痩せ、谷床が露出したのだ。しかし未明の暗さは一様にあたりをこめて、わずかに白く砂や石をそれと見せるばかりである。 曲リ沢の下流を知らぬ間に橋でわたると、ようやく路幅が狭くなる。それにつれて両側の植物が一層われわれに親しくなる。一人消し二人消して、むしろ夜明けの涼しい仄暗さを楽しみながら進む下の方には、田野鉱泉が二つ三つ電燈をともして眠っている。朝のこんな時刻に近くで見る旅館という物の、何とない哀れさ。一度爪先上りになった路は再びゆるい降りとなって、昼間の新緑の透きとおった美しさをさこそと想わせる下蔭を行く。やがて土屋惣蔵片手研かたてぎりの遺跡。しかし路は立派に改修されて、精忠と憤怒の刃を片手でふるった昔の岨道そばみちの俤は今は無い。われわれは焼山・瑳峨塩さがしおへの路を左に分って、右へ大蔵沢へ入った。 沢を右岸へ渡って一宇の祠の立っている小さい山足を乗越すと、水辺の少し開けたところへ出た。そこは流れの曲り角で、淙々と響きを上げて走って来た水が急に深みへのめり込み、岩に激しては真白な水煙を噴き、淵に吸われてはエメラルドの陰影を持つ逞ましい束をうねらせ、ぐるんぐるんと強い渦を巻きながらリズムを変えて落ちて行く。われわれはそこにある岩に注意した。水蝕のために糜爛して見事な葱状構造をあらわした、円い大きな石英閃緑岩のかたまりが幾つか、水の舌に舐められたり涼しい波紋に巻かれたりしているのである。 沢や渓谷をさかのぼる心は、やがては我が身をそこに置くべき山頂を絶えず往手にこころざしながら、他方ではまた刻々に移りかわる小世界を、我が足の一歩一歩に創造しつつ行く心である。徒渉するにせよ、危い岩壁をへずるにせよ、滝や釜に出会って高廻りするにせよ、遭遇するのはすべて予期のほかなる事ばかり、洞察とエ夫とをもって解決しなければならぬ地物、地形の気紛ればかりである。そこには山稜を行く時のような展望もなければ見通しもない。枝沢や支谷は次次と現われる誘惑の手招き、問題の提供、迷誤の機会である。しかしこれらの困難に直面してあやまり無くことに処する頭脳と体力との労が甚だしければ甚だしいだけ、渓谷湖行の滋味は深く、登頂の喜びもまた一層大きいといわなければならない。 山腹のところどころを焔のように照らしているミツバツツジの半透明な紅紫色、ヤマツツジ、ハンノウツツジの鄙びた赤、また片蔭の崖ぶちにはヒカゲツツジの硫黄色、さらに薄緑の霧を吹きつけたあらゆる樹々の若葉をかざして、五月の大蔵沢は今こそその最盛季である。登りは緩く、すべてが路。土産のために手頃な木を掘り取る者、藪蔭に咲くイチリンソウやヤマルリソウを捜す者、石を拾う者、カメラをのぞく者。時間記録を作る山旅でない気安さには、みんないい気持になって楽しみながら歩いて行く。 しばらくは吹き上げて来る谷風に涼を納れ、はじめて見るハシリドコロの紫の花に眼を休めなどしながら、さて鞍部の樹林に別れると、かなり急な茅戸の登りを私はゆっくりと一行の後につづいた。 中食を終ると一行は腰を上げた。滝子山まで縦走して夕方の上り列車を捉えるのであってみれば、そう何時までも山頂の麗らかさに寝ころんでもいられない。ぴかぴか光る茅戸の尾根は、ところどころに毛のような樹叢を煙らせ、フジザクラというのだろうか、紅貝べにがいのような小さい美花を下向きにつけた灌木の藪をつづり、迷いようもない見通しをもって破魔射場の三角点につづいていた。 私と河田君とは相当に疲れていた。水を探しに行くというので遥か下の沢との間を往復して、なおも滝子山へと縦走をつづけようという若い人たちのような元気は、少くとも私の場合では今の登りで消耗していた。それで若い一行とは此処で別れて、颯々と茅の中を駈け下る彼らをしばらく見送ったあとで、その成功を祈ったあとで、私たち二人はゆっくりと、曲リ沢峠への尾根伝いにぐるぐる廻る降りをたどった。 |
蘆川の谷
大石峠を蘆川あしがわの谷へ降ろうとして一歩踏み出すと、そこは俄然荒れくるう風の舞台だった。 (昭和八年作) |
新年の御岳・大岳
昭和五年一月三日年頭の挨拶に見えた友人長尾宏也君と二人、急に思い立って新年の武州御岳と大岳とを訪れようと、その日の午後一時半にはもう立川行の省線電車へ乗っていた。斜に車窓へ注ぐ日の光は暖かく柔かいが、天の西から南へかけて瀰漫して来る水っぽい流氷のような雲が気にかかる。だがその雲の下に丹沢は峙って見える。その巨大な塊りが昨日に引換えて今日は仄暗く、寂しく寒い。それにしても歌々と晴れ渡った北西の空のすごいような青さは! その下に蜿蜒と波うつ前秩父の連脈、吹きっさらしの武甲山の鉄兜、それから右手遙かに、柔かい乳房を寒冷な青い大気に溺らせている秩父の笠山…… (昭和五年作) 附記 これは私の初めて書いた山の紀行文で、その幼稚さまことに慚愧にたえないものがあるが、 |
高原にて
早く行き着きたい心には恐ろしく長いようでも、結局は向うの高い涼しい青空へ高原最初の電柱が現れて、さすがアンダンテ・マエストーゾの碓氷峠の登りも終る。 * 追分旧本陣での私たちの座敷は、前に一段低い長五畳を控えた、例の明るい上段十畳の間である。床には相変らず東湖の正気の歌の大軸。窓を明けはなつと天地正大の気は室内に満ちて、花瓶に投入れた秋草のかすかに動く気配もうれしい。 * 「いよいよ田部さんが見えたよ」と誰かが言う。希望に満ちて。 * 「そう始終出歩いておいでて、尾崎さん、あなたはまあよくくたびれませんね」と本陣の小母さんがほとほと感心するほど、私は毎日外へ出る。 * 多くの楽しみと美しい思い出とを満載して、「時」の船が岸を離れる。 岸では懐かしい幾つかの顔が涙ぐみながら出発する船を見送る。私たちはまた来るだろう。今度はもっと大人になり、今よりももっと賢くなって。 (昭和八年作) |
一日秋川にてわが見たるもの
多くの人は見ずしてあげつらい、且つ結論する。 「物の上にひろがって大きくなる 空は暗く重たく曇って来た。頭の上には乳房雲さえ垂れて、雷を伴った雪が感じられる。しかし北の地平線には未だ長い一筋の晴間が見えて、悲しいまでに美しい夕映えが遠い連山を黒々と染め出していた。 (昭和九年作) 附記 其の後中村太郎君は、上越一ノ倉沢滝沢の氷壁で壮烈な死を遂げた。それで私にとっては |