蝉 
                      尾崎喜八

 

  二つの高台に挟まれた谷間の町には
  朝早くから日蔭と日向ができ、
  うねうねと帯のような往来の片端や、高低さまざまの家並や、
  その屋根や塀や切妻や、
  裏庭や、木立や、葡萄棚の下の鶏舎などが、
  金いろに光ったり、紫の陰に安らったりしている。
  ちょうどその頃、蝉捕りの子供たちが
  黐のついた長い竹竿を手に提げて、
  狭い往来や坂道を右往左往する。

  蝉の声は
  木立の多い朝の静かな町なかにいっぱいだ。
  みんみん蝉、油蝉、つくつく法師、
  彼らは夜明けから一匹一匹と歌いはじめて、
  朝顔の咲いた涼しい庭で
  鶏がときをつくる七八時ごろ、
  もうその金属的な声で空間をみたす、
  太くまっすぐな欅の幹や
  楠の暗い群葉の茂みから、
  あのすきとおるような歌や壮快なしらべで。

  むこうの丘は彼らの合唱に揺るぎ出すかと思われる。
  こちらの丘でもしだいに揃って来る高いピッチ。
  それが、あの谷川のようにうねりくねった町の上で
  囂々と合体して天を衝く。
  このすさまじい、しかも燦爛たる音響的効果は、
  来たるべき作曲家に何か貴重な暗示を与えはしないか。
  この、秋も間近な八月の、
  日光、青ぞら、雲、樹木、微風などの魅力と共に。

  蝉の歌は夏の歌だ。
  君が真昼のうたたねに陥るとき、
  窓のまえの梢に来て
  張り切った白金の糸をすり合わす者は蝉だ。
  彼の歌は
  地上の炎夏を布告しながら、又玲瓏たる雲の上の秋まで達する。
  生活のもっとも熾烈な瞬間を高調しながら、
  その裏にひろがる季節の悲哀をひるがえす。

  蝉の歌は透徹する者の歌だ。
  自我の炎上に燃え狂って
  瞬刻の生命に奔騰する者の歌だ。

  しかし、夏も老い、九月も更けて、
  天の極みから水晶の風吹きおろす頃ともなれば、
  杳として彼らは姿を消す。
  しかも彼らの歌の悲壮な響きは、
  これを感じた者の耳に残って永く離れまい、
  あたかも空間を無尽に縫って
  やがて四散した音楽のように、
  また青空にひるがえって
  ふと消え失せたまぼろしの旗のように。




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注)日向 ヒナタ モチ囂々 ゴウゴウ/燦爛 サンラン
玲瓏
レイロウ生命 イノチ ヨウ