夜の樹々と星と私と
尾崎喜八
星ぞらの下に樹々は悦ばしい夜の頭を上げる!
今は季節が秋でヴェガは天頂を少し西に、
東方の空には金に輝くカペラ、アルデバラン。
そして地上に樹々は黒々と波を打つ。
星と樹木にたいする並はずれた私の愛は、
私をじっとさせては置かないで外へ連れ出す。
私は家を出ていつもの足早な散歩をはじめる。
すると、もう私の目には、
一つの鮮やかな星が
桜の枝のむこうに見える。
私は名をいって呼びかける、
友達のように。
おお、お前、銀のフォーマルハウト!
北半球と南半球との固めの鋲よ!
木の葉が匂う、
星さえもまた。
愛する者には星さえ天上の匂いを感ぜしめる。
私の頭脳はしだいに澄んで活溌になる、
私の心は夜の中に拡がってゆく。
ああ! 額に当たる秋風よ、
襟を吹きめぐる秋風よ。
お前は冬の先駆なのか。
それなら私について来い、
お前の冬の透徹の釘を
もっとかっちりと私に打ちこむために。
散歩の路は燈火と群衆とから離れて
遠く荘厳な夜にむかう。
ただ、秋を生き切る蟋蟀が、
到る処で白金の糸を紡いでいるばかりである。
私に一々名を呼ばせてくれ、
風に輝く星々よ。
お前たちの名の強く美しい水晶の響きが
この静寂の世界にいかばかり高く反響することだろう。
頭のまうえで躍り上がっているお前ペガスス、
お前アンドロメダの燦く頸飾り、
それから島のこちらで翼を張って舞っている鴎のような
お前たち可憐な、三角、牡羊、
立派な腕を上げているお前英雄のペルセウス、
その下に低く、燃えるような松明のように天を焼いているお前カペラ、
また私が「遥かに煙る銀の鍬形」と言ったお前昴、
それと同じ牡牛座にようやく目をあけた
お前血の色のアルデバラン。
ああ、お前たち、
私の名指すのを悦ぶお前たち、
初めてお前たちの名と形とを知った三年前の夏の夜な夜なを
私は今でも忘れない。
星の名の点綴される時、
あらゆる詩が不思議な美を持って来る。
そしてあらゆる季節が
その夜々を飾る魂の花園を持っている。
けれども今度は地上、
私のゆくては右も左も
夜目にもはっきりそれと知られる桜の並木で満たされる。
私は彼らの全体をそのまま愛する、
その幹も、その枝も、その梢も、
そして今は秋も終わりのその錯落たる葉にいたるまで。
彼らののびのびとした枝張りに、
私は自分の心を加える。
何という静かな力と自由とを彼らが私に教えることだろう。
今私の往きすぎる頭上の枝は、
どんな風が好もしく、又星が優しいかを、
そのちらちらと入り乱れた無数の動きで私に知らせる。
私はその一本の下に立って空を見上げる。
梢の網にかかった星が花のようだ。
星と桜の枝とが私の心をあますところなく満たす。
今宵の賜物はこれに尽きるように私は思う。
風は私の散歩の路で
猟犬のように附きしたがう。
駆け出したり、廻ったり、
枯葉を追ったり、垣根をがさがさ揺すったり、
私は彼の存在をも忘れない。
むこうでは巨人の欅が星明りの中に立っている。
私は彼の髪の毛が
高い天で動くのをはっきりと見る。
その彼をペルセウスが跨いでいる。
彼に言葉をかけているのか、
心を高める光景である。
いま私は椎の木立の下を通る。
その無限な微妙なさらさらいう囁きが
私に人間世界のでない話をきかせる。
空からの微かな光がその千万の葉の何処かの端に当って、
無数の切子の面がきらきらする。
そして夜の中にひろがった彼らの厚み、彼らの充実、その動きは、
すべてそのまま私にとっては模範である。
あらゆる芸術の目標でありながら
われらの容易に達しがたい処を樹々は楽々とおこなっている。
夜がひとり星と樹々と路と風との世界となる時、
散歩する私の歩調は早さを増し、
私の姿は彼らの中に遠くまぎれこむ。
彼らは尽きることのない豊富さをもって私を包み、
また何かしらを私に滲透せしめる。
こうして何時間かの後
天の光景はしだいに移り、
深夜の噪宴がやがて始まろうとする時、
町はずれの電燈のまばらな路を
私は一人家路へと帰る。
しかも私の帰り路、
いずこにも私の友の一人はいる、
星と樹のいくつかが。
たとえばその曲り角の一本の桜、
西天に沈もうとしているヴェガ、アルタイル、
そして今も忠実な道づれの風が。
星ぞらの下に樹々は悦ばしい夜の頭を上げる。
私の散歩は彼らの世界に自分の魂を拡大することである。
そしてその宇宙的な波うちを
自分の心に加えることである。
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