我等の民話
(ハンス・カロッサ追悼)
尾崎喜八
その人は空をきざむ氷雪の山々と、
或る偉大な音楽家の名と、
歌や伝説で名高い二つの河の出あうところ、
由緒ある二つの国と国との境の町に
年久しく住んでいるということだった。
古く強い魂と、日光のように寛容な心と、
世界の展望への深くひろびろと澄んだ明知。
重厚に、質素に、世に目立たず、
頼もしく慕わしくその人は生きていた。
そしてときどき其処から、ゆっくりと
丹精こめてつくった贈り物を、
右手のする事を左手に知らしめない心づかいで、
世界に散らばるもろもろの
心まずしい敬虔な人々に彼は届けた。
幾年に一度の思いもかけぬ聖なる宵に
私たちの許へも届けられるその贈り物は、
ささやかな包みから夥しい中身となって拡げられ、
贈り主の深く洞察的な柔らかいまなざしと
好意にほころぶ微笑の面輪とを想わせた。
そしてその一つ一つを手にとると
それぞれがまた幾つにも分解して、
或いは叡知、或いは警告、或いは鼓舞や慰めが、
人おのおのの内心の願望や求めに応じて現われるという
驚くべき魔術を演じるのだった。
ああ、その人が、このごろの秋の或る夜、
急に召されて遠いところへ旅立ったそうだ。
その救世の魔術の大いなる功徳が
いよいよ必要なのは実に私たちだったのに。
知らぬ天国は私たちの知らぬ間に
彼の手を借りねばならないほど
それほど貧しくなっていたのだろうか。
(昭和三十一年九月)
|