木曾の歌 (開田高原) 
                      尾崎喜八

  もしも私たちがこの土地の生まれだったら、
  そして十八のお前が藤屋洞の、
  私が二十歳で把ノ沢の若者だったら、
  銀いろの蜘蛛が高原の白い木いちごの藪に
  人しれず涼しい虹を編むように、
  私たちもひそやかな恋の幸福を編むだろう。

  地蔵峠のむこう、末川から西野まで
  ビロードのような牧草地の丘の起伏、
  山おだまきや下野草や羊歯のあいだを流れる小川
  昼間の明るい霧をとよもすほととぎすの声、
  どのいえでも飼っている馬と、どこからでも見える御岳……
  そういうものが私たちの愛の背景となるだろう。

  小さくて、粗食に堪えて、働き者の
  木曾馬この土地では大切な家族の一員、
  そのために私は夏草の丘ひろびろと鎌を振り、
  お前は暗い広い台所のかまど前から
  彼らの気のいい素朴な顔に
  弟妹へのようないつくしみの声をかけるだろう。

  そして七月・九月の福島の馬市に、
  ジャンパーを着て鳥打かぶったお前の父親が
  狡猾そうな鋭い眼をした買手の男と
  ポケットの中で指の符諜の取引をしている時、
  トゥベルクリンの注射をされ、目方を衡って売られてゆく
  愛馬を撫でて涙ぐむお前に私が涙ぐむだろう。


 


「歳月の歌」目次へ / 詩人尾崎喜八の紹介トップページへ / 煦明塾トップページへ 
注)藤屋洞 フジヤボラ二十歳 ハタチ把ノ沢 タバノサワ/蜘蛛 クモ/藪 ヤブ
下野草 シモツケソウ羊歯 シダ御岳 オンタケ/堪えて タエテ/狡猾 コウカツ
符諜
フチョウ/目方 メカタ/衡って ハカッテ/撫でて ナデテ