木曾の歌
(鳥居峠)
尾崎喜八
われわれは木の根、岩角をつたいながら、
今では人も通わない中山道の廃道を
息を切り、汗を垂らして登って行った。
下ではこるりの、上ではめぼその囀りが
深山の昼のしじまに響いていた。
峠に近く幾百年を経た橡の原始林があった。
梢の空に高々と白い花の泡を盛り上げながら、
たそがれのような下道は苔と朽木の匂いだった。
星鴉がしわがれた声でやわらかに鳴き、
青げらがけたたましい叫びを上げて飛び立った。
やがて前方の視野がからりと開けて
われわれは古い峠の頂上へ出た。
きらきら震える暑い空気と山谷の波、
その夏霧八里のかなたに
木曾御岳が厖大な夢のように浮かんでいた。
あたりは耳を聾するえぞ春蝉の合唱だった。
石碑にとまった彼らの一匹に近づいて
その熱烈な朗吟に眼と耳とで聴き入っていると、
ひとくさり鳴いてはにじり歩く蝉の頭を大写しに、
銀の木曾川と藪原の古駅とが焦点外れのパノラマだった。
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