木曾の歌
(奈良井)
尾崎喜八
奈良井川のながれを見おろす道ばたで
今辞儀をしながらすれ違ったうら若い一人の女性、
----白いブロードのブラウスに紺のスカート、
涼しく切って波をうたせた匂やかな髪----
あれはきのう地区の教職員の総会で
選ばれて木曾節を踊った女の先生だ。
竪に割れて両岸せまった断層谷の
その下段を縫う古い街道の行きどまり、
時の流れに片よせられて静かに朽ちてゆくような
暗く古さびた昔の宿のどこかの家から、
袋の底の錐の穂のように出て来たに違いない。
この山里に今をさかりの笹百合のように
ういういしくて、あでやかで、
明眸むしろ犯しがたい妙齢の女との
鴬の歌も老いた夏の木曾路のすれちがい。
憂鬱に亡びるものと溌剌と生まれるものとの
この背離はいつの世でも宿命的だ。
朝霧晴れた奈良井の谷の夏景色から
あの珊々と玉をまろばす「鱒」の五重奏曲の
輝かしい主題と変奏を思っていた私の心に、
甘美に暗い「死と乙女」のそれが、その時以来、
しばらくまつわって離れなかったのも是非がない。
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