故郷にて 
                      尾崎喜八

  はるばると暮れてゆく水浅黄の空に
  薄桃いろの波がたや煙模様を掃いてはえがく
  夕焼雲のうつくしい夏が来た。
  まだ昼間の熱の残っている畠の土に
  馬鈴薯は気力にみちた球をむすび、
  路傍のにからみついて
  すいかずらや野薔薇が
  たそがれの白いかおりを吐いていた。
  そして一番麦のとりいれの野では
  天の壮麗の下を男、女が刈ってはならべ、
  その汗みずくの熱した鎌や
  寐かされた麦束を一様に
  昔も今もかわらぬ故郷の風が吹いていた。

  人はこの神聖にも平和な、
  また一抹の哀愁に彩られた風景の中に立って、
  自分というものが何と根づよく抜きがたく
  この土に結びついているかを感じた。
  その祖先たちは何百年かのむかし
  森林と藪地とのこの荒野を切りひらき、
  蘆荻におおわれた沼を干して、
  灌漑のかがやく水の手をきめたのだ。
  族は族を生み、氏は氏へと枝分かれした。
  そして百年むかしの或る夕暮、
  おなじ水浅黄の空に薄桃色の雲がながれ、
  嫁の胸に赤児がとりつき、
  家畜らは水のような空気に声をあげ、
  男たちがまだとりいれの野から帰らぬ時、
  この世の生を終って死にゆく一人の祖先は
  雪よりも白いその剛毛の眉の下から、
  遠い山々の荘厳のこなた、平和な野のあちこちに
  薄青くたちのぼるゆうげの煙をながめ、
  風に伝わる鎌のひびきを聴きながら、
  一族の未来の繁栄をおもって、
  八十歳の老の眼に
  一滴の雫をたたえたのだ。

  その同じ魂が
  自分の衷にも生きている事を感じた。
  伝統への執着、かたくなでさえある自憑の精神、
  自然への信頼、労苦への忍従。
  重い血潮は彼の全身を隈もなく
  遺伝の響きを立てて流れていた。
  またおのれを護るためには
  時に好戦的ですらあった祖先の気魄、
  それが荒々しい垣のように
  理性の周囲にめぐらされている事を人は感じた。

  彼のまわり、草木の根がたには
  しだいに闇の色がひろがって来た。
  魁偉な切株に這いまわった昼顔は
  うすれてゆく夕映えのなかですでに花をとざしていた。
  暗くなった椿の下の祠では
  しかし絵馬の色だけが未だかすかに明るかった。
  そして昔ながらの晴朗な哀愁が
  平野の村のいたるところに漂っているのに、
  畠のまうえ、
  やがて涼しい星のうまれる大空では
  まだ一羽の雲雀が高くはっきりと歌っていた。

  彼の重たいしっかりとした歩みは
  くいなの鳴く田圃をこえて
  ほのかに明るい丘の雑木林へむかった。
  その緑の苔の下に懐かしい祖先らの眠っている、
  また血筋と愛と
  東の空の月の出とに
  ほのぼのと誘われてゆく墓地のほうへと。




「曠野の火」目次へ / 詩人尾崎喜八の紹介トップページへ / 煦明塾トップページへ 
注)水浅黄 ミズアサギ/路傍 ロボウ/藪 ヤブ/寐かされた ネカサレタ
  
祖先たち オオオヤタチ/蘆 アシ/荻 オギ/灌漑 カンガイ ウジ
     或る
アル/雫 シズク/衷 マゴコロ/自憑 ジヒョウ/隈 クマ/気魄 キハク
 魁偉
カイイ/祠 ホコラ/田圃 タンボ