曳船の舵手
尾崎喜八
投げわたされた渡船の綱の
腕よりも太いのを支柱にひっかけ、
悠然と舵輪をにぎって
ゴーヘー、
たちまち渦まく推進機と、船尾に泡だつ水の沸騰。
そして一息ぐんと船が出れば、
傾きながら半旋回する小蒸気の艫で
ああ
肩幅も豪快な曳船の舵手よ!
金モール青さびた錨の徽章の
君の帽子のまびさしに朝日がきらめく。
壮大な朝の大川のどよもしの中、
トラファルガーの船らのような近海運送船や
石炭の積荷に重い達磨船の縦列を横断して、
水の上の目まぐるしい艀や
冬をよろこぶ鴎のむれを追いちらしながら、
うらうらと金色にまどろむタアナーの靄の奥、
薄むらさきの影絵をぼんやりひろげる
大小幾十の倉庫や工場にひびきわたれと
汽笛を鳴らす有明丸、
その曳船有明丸の舵輪をとって
船客満載の渡船をひきつれ、
快活に、平然と、
しかもすばやい眼をもって、楽々と、
力づよい流れをよぎって梭のように往きかいしながら、
常にこの岸から彼の岸へと
人間の運命、人間の希求を、
運びもたらす君の任務は男のものだ。
されば我から選んだその仕事に
自覚と誇りと喜びとを持つ君は、
ともづなを握るまっかな拳に
あられの打ちつける冬の日でも、
また桐油合羽のあたまから
底ぬけの豪雨を浴びる嵐の夜でも、
或いは又、いつの日か、夏の真昼、
むこうの方、ちまたの空に
どんな時勢の叫喚が湧き上がる時でも、
その深い信念と権威とから、
平然と、死もまたおそれず、
昔ながらの Go ahead ! を君は号令するだろう。
(昔の月島かちどきの渡しの船長権さんの思い出に)
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