帰来 
                      尾崎喜八

  黙々として彼は山から帰って来た。
  試みられた力は彼に自由と重厚とを加えるが、
  眼は雪しろの水を湛えた山湖のように
  ふかい静かな懊悩をうかべ、
  心には雲のような物の去来がある。
  時おりの微笑は霧の晴れまの日光のように咲きはしても、
  沈黙を一層よろこぶ昨日今日の自分自身を
  どうすることも彼にはできない。

  山の無言とけだかさとは
  かりそめの言葉を彼からうばった。
  堆石のほとりの寂しい残雪、
  全身を鞭うつ尾根の強雨、
  あこがれと予感にけむる夏の遠望……
  山はそれらのものの深遠な意味を彼にさとらせ、
  その根源の美と力とで彼を薫陶した。

  そして再び複雑多端のこの世を生きようとする彼だ。
  それならば、小さな好奇心でうるさく訊くな、
  何処へ行き、何を見、何をしたかとは。
  幾多異常な体験に面やつれして帰った彼が
  この帰来の周囲からおのれ自身を見出して
  新生の瑠璃黄金をまとって童子のように立つためには、
  なおいくらかの孤独の時を持たなければならぬ。


 


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注)/懊悩 オウノウ昨日 キノウ今日 キョウ/鞭 ムチ/薫陶 クントウ
訊く
キク/何処 ドコ瑠璃 ルリ黄金 オウゴン