歳月
尾崎喜八
むかし春の空気に黒鶫が歌い、
夏の光に葦切が鳴きしきった
あの美しい三つの沢を横ぎって、
いま、白い堅い大道が無遠慮に走っている。
それで私の心がほのかに痛む。
むかし野薔薇が雲のように咲き埋めた
屋根の突端にいま知らぬ他人の家がそびえ、
蓮華躑躅が赤や黄の炎をかざした
丘がうがたれて乗合バスが揺れてゆく。
心よ、傷つけられた思い出に哭くなら哭け。
しかし眼を上げて遥かを見れば
残雪の鳳凰、甲斐駒、八ヶ岳、
耳をすませば草吹く風に飛蝗の羽音、
高原の魂まことに旧を懐わせる。
それならば、心よ、せめてこの瞬間の現実の
高く遠く変わらぬものに慰められてあれ!
(信州富士見にて)
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