モーツアルトの午後
尾崎喜八
気だてのいい若い綺麗なおばさんのような
マリア・シュターデルがモーツァルトを歌っている。
「すみれ」、「夕暮の気分」、「別れの歌」などを、
日本の音楽堂でのリサイタルだというのに、
まるでスイスの自宅でのもてなしのように
くつろいで、まごころをこめて歌っている。
これが本当に歌というものだ。
そして一曲が済むごとに、
聴衆の溜め息と拍手に答えながら、
伴奏者の夫君にも片足ひいて
ピアノ越しにお辞儀をする。
こんなに家庭的で、幸福で、貞潔な
モーツァルトというものに出会ったことがない。
この音楽の神の寵児は重い借財と屈辱と
死への諦念の晩年に
いくつものこんな珠玉を書いたのだが、
それをこうして供される心が涙ぐましく、
深く喜ばしく、敬虔だ。
シュターデルは最後に晴ればれと「ハレルヤ」を歌った。
そとへ出ると初夏の昼の東京が田舎のようで、
日が照って、雲が浮かんで、並木がそよいで、
いかにも今聴いたモーツァルトにふさわしく、
友と私とはとある町角のビヤホールで
重たいザイデルをがっちりと打ちあわせた。
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