音楽教育と人権教育 満嶋 明
満嶋さま: > 私たち音楽科グループでは、音楽教育を通じて、 岸川 |
岸川 様: メールありがとうございました。いただいたご質問について少し考えてみたのですが、論理的なまとまりのあるものにするには半年くらい掛かりそうなので、今まで頭の中を流れたことを箇条書きのように、書き流してみます。なぜならば、これは教育の根幹に拘わる問題だからです。 ですから、今回の私からの回答は「総論的な」「考えるためのヒント」の提示程度にしかならないと思います。ごめんなさい。私としては、なるべく反論しやすいような構成にしてみたいと思いますので、お仲間と読みあっていただいて、議論をお続け下さい。或いは過激な表現が出るかもしれませんが、ご容赦下さい。 |
1)音楽教育と人権教育?
はじめに苦言を申しますと「音楽を通して人権意識を高める」という発想には反対です。それは、私が音楽教育は人権教育とほぼ共通した守備範囲を持つと考えていて、改めて「音楽を通して」と題打って考えることではないと考えるからです。私にとっての教育とは「それぞれの個性を尊重し、その個性の発現(つまり自己の表現)をバックアップする」ということです。どんな教科にも、また初等であれ、中等であれ、高等教育であれ、共通していると思います。たまたま「音楽」の教育であれば、自己表現は音楽的な素材を使うことになるだけであり、「音楽的な技術指導」に関しては自己表現のバックアップの中に含まれると考えます。 しかし、一般の人には音楽教育と人権教育とは全く畑違いのように見えるかもしれません。しかし考えてみると、人権教育においても最も優先させなければならないことは「個性の尊重」である訳ですから、音楽教育でも「個性の尊重」が重要と言うことになると、共通する領域を持っていることをご理解いただけると思います。 残念なことに、現在の日本の教育では、音楽教育も人権教育も中途半端な状況と言えます。音楽教育にも人権教育にもそれなりの知識と教養と哲学、そして日々の精進が欠かせないのですが、なかなか忙しい勤務の中では、ゆっくりと時間を掛けることは難しかったのかもしれませんね。折角の機会ですから、音楽にしても人権にしても、個性を尊重すると言うことについて考えてみましょう。昨今、教育が荒廃していると言うことで、個性を伸ばすとか、自主性を持たせるなどの試みが始められて、「個性の尊重」というお題目は唱えられるようになっています。この動きを本当の実のあるものにするために、先生方が深いところまで考えを及ばせて頂ければ幸いです。 「個性尊重」ということを考え出すと、「教育」全体を始めから考え直さなければならなくなるのですが、それでもいいですね!? |
2)現在の学校音楽教育
大学の教員養成課程で習得する音楽科教育法のなかでは実は「音楽」は語られていません。音楽的な知識と若干の技術は習得できるのですが、それはあくまでも「音楽的」ということであって「音楽」そのものではありません。例えば、リズムについて大学で学習しますが、それにしては「活きたリズム感」を持っている教師は少ないですね。教育学部だけでなく音楽大学卒業生でも同じ現象が見られます。厳しい表現をすると、多くの教師は西洋音楽に関して言えばほとんどがリズム音痴です。 つまり、初等教育、中等教育の現場では「音楽科教育」は行えてはいても本当の意味での「音楽教育」は現時点では事実上行われていないことを指摘しておかねばなりません。 長年、音楽科教諭を続けてこられた方々は「音楽専門」のような顔をされるのですが、音楽家でもなければ音楽教育家でもなく、本当は音楽科教育従事者なのだと思っています。多くのピアノ講師と同じく、技術は教えられますが音楽は教えられないのですから。少し嫌みが過ぎました。すみません。私の考える「音楽を教えるために唯一必要な事柄」は指導者から「溢れ出てくる音楽性」でありますから、溢れるほどの音楽性を持ち合わせない教師にとっては、やはり「音楽的な知識と音楽的な技術」を指導するしか他に道はなくなってしまうのでしょう。 何故こんな状況になってしまったのか、それは教育の歴史をみれば明らかになるのですが、ここでは割愛します。ただ、音楽の教育が出来る音楽教育家が日本ではあまり育っていないということを先生方ご自身に認識して欲しいと思います。演奏家に毛が生えたくらいの輩が「音楽教育家」としてはびこっている以上、この現状はなかなか打破できないかもしれません。しかし、嘆いているだけでは何も変わっていきません。岸川さんとそのお仲間と一緒になって、本当の教育という物を考えてみましょう! 注)一応、参考資料として上に掲げた「音楽教育を考える」と「韻律入門」の2編をお読みいただいた後で、この作文をお読みいただけると嬉しいです。 |
3)現在の人権教育
人権意識を高めるという啓蒙活動の実践できる学校がどれだけ存在するか知りません。国や地方自治体、また教育委員会も人権教育を活発にする必要性を強く打ち出しているのですが、どうも実効を上げていないようです。同和の公開学習や発表を指名された多くの教師が「あ〜あ、当たってしまった!」と嘆いている状況なのですから致し方ありません。同和対策に携わっている自治体の職員もほとんどが人権についての深い理解がない状況の下でスローガンだけが先行しているのが現状です。いえ、だからといって彼らを責めるわけにもいかないでしょう。彼らも人権とは何か、教わってこなかったのですから。でも、現状を黙認するわけにもいきません。どうしていけばいいのでしょう。 人権教育においてもっとも重要なことは、指導者から「溢れ出る人間性(人間愛)」であると私は考えています。言い換えれば、指導者自身が「個性の尊重」を実践しなければならないということです。音楽教育では溢れ出る音楽性が、人権教育では溢れ出る人間性が指導者に求められることになります。似ていると思われませんか?「個性の尊重」を実践出来ない教師(体罰を肯定しているような教師、等)がどんなに口を酸っぱくして「差別はいけないことだから止めましょう」と言っても誰もついてきてはくれません。 現在の同和教育、人権教育の主な活動は「差別の撤廃」という流れになっています。この活動方針はどう考えてみても、消極的または対症療法的、規則的であって、ますます規制の輪を強めているように思えます。ただ、単純に積極的に「個性の尊重」を推進すれば良いことだと思いますが、如何でしょう。ただ生徒を差別している、あるいは生徒の人権を無視している教師が大多数を占めている現況では、「個性の尊重を実践する」ということ自体を理解できない人が多いと言うことですから、人権教育はほど遠いかもしれません。人権教育への一番の早道は「教師たちの人権意識を高める」ことかもしれません。じゃあ、どうするか!?急がば廻れで、今一度「教育」について考えてみたいと思います。 |
4)教育って何でしょう?
教育論については各教師それぞれの持論があると思います。私が問題にしたいのは、現場でどう対処するかと言うような「枝葉末節」ではなく、それぞれの教育哲学について問いかけてみたいと思います。教育ってなんでしょう?科目でいえば「教育原理」のようなものですね。最も時間をさいて考えなければならない哲学を、結構いい加減にすませてきた教師たちは、もう一度ここでご自分のポリシーについて検討し、再評価して見て下さい。子供たちに「何」を教育しようとお考えですか?中学校の先生でも、「教科」に限った内容では困ります。教育者として子供たちをどう教育したいか、ということなのですから。できれば、回答を文章化してみてください。そうすることによって、ご自分の考えをしっかりしたものにすることが出来ます。そして、それを他の教師に公表し、第三者の批判にさらしてみて下さい。教師は、ともすれば教室という井戸の中の蛙になってしまう嫌いがありますから、この方法をお奨めいたしましょう。討論を始める前に、お互いの教育論をしっかりと示しあって置くことは、論議を深めるためには是非必要です。 未だポリシーをお持ちでない教師、困りましたね〜。でも今からでも結構ですから、確固としたポリシーを打ち立てる努力を始めて下さい。ポリシーを持った教師を私は「教育者」であり、個性的な人間と思います。個性的な人間でない者が「個性の尊重」はできません。事務的に授業をこなしているだけの輩を私は教育者と思いません。事務屋に教育はできません。ポリシーを持つための考えるヒントを少し書いてみましょう。 国語の授業(教諭)は、たまたま国語という教材を使って「教育」を実施するし、 その「教育」の内容はまったく同じ物なのですが、どうせなら、いろいろな事柄を学習させつつ「教育」した方が“効率的”ですから、いろいろな教科があると考えていただきたい。始めに「教育」する内容が決定されていて、それからその実践に於いて、各科目の具体的な指導方法などが決まっていくと思うのです。特に小学校では、科目それぞれよりも担任教師と生徒との間の人間的なつながりに於いて教育が実践されるわけですから、担任教師それぞれが確固とした教育目標が必要となります。教育すべき内容または哲学を持たないまま、枝葉末節に当たる「指導方法」ばかり論議の対象になってしまわないように注意が必要でしょう。いえ、枝葉末節が不要とは思っていません。重要です。でも、教育の「幹」のほうがもっと重要と思っているところです。 何を教育するか、教育すべきか、教育できるか?これは文部省では考えてくれません。たぶん、考える能力もなければ、その責務もないからでしょう。教育委員会でも考えてくれません。考える能力もなければ、その責務もないからでしょう。スローガンと事務的な業務指導だけはどんどんと降ろしてきます。なぜなら、お役所の仕事は事務処理であって、哲学ではないからです。文部省も教育委員会も「事務屋」で構成されています。お役所にとっての「何」は、「亀という字を教えようかな?ちょっと難しいかな?いづれにしても、旧字体の龜はやめような!」というレベルの問題です。となると、考え出して行かねばなりません、現場の教師たちでその「何」について!その視点から言いますと、「音楽を介して人権教育を」と発案なされた岸川先生方は正しい道を歩み始めているのだと思います。 では、さて、一体何を教育するというのでしょうか? ひとつの模範解答をお示しします(他の表現でも間違いではありません)。ここでいう「人として」とは、仮に「自己管理できる人間として」ということにしておきましょう。「できるだけの情報を集め、情報を消化・吸収した上で判断を下し、そして自己をコントロール(または表現)していく」人間を育てていく。当たり前のようですが、これで間違いはないと思います。 もう一つの重要事項は、対象は「子供を」ではなく「人を」というところですね。お気づきになっていましたか?「子供を、人として育てる」のではなく、最初から「人を人として」と書きました。つまり、教育の相手は「子供」ではなく「人」であるということ、つまり相手が子供の年令であっても「大人と同じように」接していくことを意味しています!(ここに、人権尊重の重要性があります)。そのための方法は、たぶん多くはないと思います。教師が「自己管理している人間」として実践すること(まともな大人の模範を示すこと)だと私は思っています。生徒たちは、その教師の背中をみて育ちます。その人間性をみて育ちます。もし、偏差値や校則やその他のルールだけに事務的に縛られているだけの教師像をあなたが子供たちに示せば、こどもたちは「そのように」育ってしまうでしょう。
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5)自己管理のできない大人たち
自己管理するためには、まず自分自身の判断をしなくてはなりません。規則で決められているからとか、人がそういう風に言っているとか、上司がそう命令しているからとか、人の判断を自分自身の判断と誤解している人も多い昨今ですね。上司の命令が「社会的に見て間違っている」と気がついても、それを「指摘」しない限りは自分自身の判断が出来ていないことになります。「滅私奉公」という姿勢をいまだに美化しているお年寄りが教育関係にも残っているのですが、人権擁護という立場が理解できない化石のような存在です。昨今の金融機関の不祥事、銀行マンたちは「人間である」ことを放棄していたことを意味しています。このような大人を作ってきたのは明治以降の文部省教育だったのですが、これからもそれを継続させないように、こんな大人を作っていかないようにするために皆さんの奮起を期待します。 世の中に自己管理できない可哀想な大人たちがはびこっています。上に書いた通りです。そして彼らは自分たちが正当だという妄想を持っています。自分たちが正当であるかどうかも自己判断できないでいます。罪悪を人に及ぼさない内はまだ良いのですが、たとえば、セクハラをする大人たち、汚職する大人たち、人権を無視する大人たち、飲酒運転をする大人たち、暴力を振るう大人たち、いじめる大人たち、言葉でごまかしてしまう大人たち、がいる(教師の中にもいる!)。その背中を見て育った子供は、セクハラをしても、汚職しても、飲酒運転しても、ごまかしても正当だと考えるようになるでしょう。自分の思い通りに生徒が行動しないからと言って暴力(体罰という言葉でごまかそうとしています)でねじ伏せるとしたら、生徒に「今度、自分の意に反する奴がいたら暴力でねじ伏せればいいのサ」と教えていることになります。反論するなら反論して下さい。 個々の教師が自己管理(自分で情報を集め、分析・判断し、結果を行動として表す)を徹底的に行っていたとしても、たった一人の教職員が自己管理ができていなければ、子供たちはそれを見ています。でぶでぶに太った教師がいたとします。その人は自分の健康管理を自主的に出来ていない証拠なのです。子供たちに「なんで自主的に考えて行動しないのか」と怒る前に、同僚の肥満体に自己管理を勧め、教師たちが自己管理をしていることを示す必要があります。自己管理ができていない教師の存在を認めておきながら、子供たちに「自主性を求める」という矛盾に子供たちは気がついています。大人のずるさを見抜いています。 校内に体罰を行っている教師が一人でもいれば、その学校ではもはや「人権教育」は見せかけのものになっています。体罰という人権を無視した行為を他の教職員が黙認している状態で、子供たちにどうして「人権尊重」を教えることが出来るのでしょうか?子供たちにスローガンだけを示す事務屋が職員会議を進行させているという世にも恐ろしい光景が目に浮かびます。 多くの大人たちが自己管理が出来ないと言うことは、「人」に判断をさせずに親とか教師とか会社とか役所とか野球監督がその「人」に換わって判断してくれるというシステムが日本に出来上がったからだそうです。そのことを、精神科医の斉藤学(さいとうさとる)さんは、「子供たちに侵入する母親たち」と呼んでいます。学校に通っているうちは母親や教師が、就職してからは会社や世間が、「侵入する母親」となっているということです。 さて、学校に戻りましょう。教師たちが、自己管理できるということを子供達に示すこと。これが「人を人として育てる」ために重要であることを認識してください。そのために、教師自らが自己判断・自己管理・自己表現に努めることを、さあ、始めなくてはなりません。 |
6)自己管理のできる子供たちに
自己管理のできる子供たちに育てるためには、教師自身が自己管理できる「人」になるべきことを長々と書いてきましたが、では、実際に「人を人として育てる」ためには具体的にどの様にすればよいのでしょうか?その回答はひとつしか無いと考えています。それは「子供を信用する」ということです。これでは言葉足らずですか?言い換えるとすれば、子供を「判断できる人」として接することです。もちろん、その判断は下手かもしれません。けれども、判断できる主体として捉えてこそ、はじめて「判断の練習」をさせてあげることが可能となります。「まだ判断の出来る年令ではない」といって、判断そのものを取り上げてしまうことを極力避けるように努力して下さい。世間や教育委員会の顔色しか見ない大人たちよりも、ずっと正確な判断を下せる小学生は、幸いなことにまだたくさん残っています!この子たちの判断の芽を摘まないこと、どんどんと判断させること、判断が甘かったら、その理由をわかりやすく説明すること、たぶんこれで教師の役割は半分以上終わることになるでしょう。子供を「人間」として認識するところから、さあご自分を変えて下さい。あなたは子供よりも上に位置せず、下にも降りず、対等の立場で対峙することになります。あなたには耐えられますか?いえ、これまでの見栄を捨てて耐えなければなりません。もし、人権を尊重したいという気持ちがあるのであれば。誰でも聖人ではありませんから、すぐには到達できないかもしれませんが、努力して欲しいのです。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」は、教師と生徒の間にも成立させなければならないのです! 自己管理の条件としての「判断力」を養うための材料はたくさんあります。子供たちも自分自身で興味のあることを見つけ、自分なりに判断し、それを行動で表現しています。自己管理を促すと言うことになれば、彼らの自己表現を大切にしなければなりません。極端な例ですが、ピアスをしようが、茶髪にしようが、煙草を吸おうが、それは自己表現ということになります。親や教師と異なった価値観を持っていたとしても、誰がその価値観が間違いだと指摘できるでしょう。少なくとも、大人たちには間違いだと発言できる資格はありません。大人の社会そのものが現在「自己管理できない」状況なのですから、資格などとんでもありません。それが良いとか悪いとかの判断は他人がすることではなく、自分で決めることなのです。子供とて同様です。自分で決めるべきなのです。 同じ土俵に上れる権利、これが世に言う「平等」の原則です、ご存知でしたか?基本的人権が言われるときの自由と平等の、その「平等」です。大人も子供も、同じ問題について自分の判断をする自由と平等の権利を有していることを今認識して下さい。反論があるのであれば、お受けします。但し、法律とか規則などを引き合いに出してくるような低いレベルの各論的な反論は、そちらで勝手にやっていてください。 さて、判断の練習をさせる期間、それは初等教育から始めなければなりません。はじめは練習、次第に実習、やがては実践という様なカリキュラムを、生徒の発達に応じて組み上げて下さい。クラス単位とか学年単位ではたぶん対応できないと思います。生徒個々人単位でカリキュラムを作成した方が賢明だと思います。一人の教諭で手に余るようであれば、数人の教諭で協力するのも良いかもしれません。 逆の例も考えてみましょう。自己管理を阻止する、人権を無視する、個性の芽を摘み取る、というための方法を考えてみましょう。最も簡単な手段は「校則」を厳しく守らせるということでしょうか。非常勤で私が行っていた高校では、髪の長さやスカートの丈を規定していました。ものすごい数の規制が「当然の」ように記載されています。教諭のほとんどが、その校則を守らせるのに汲々としている始末です。「しつけ」をするという行為と、詳細に記載された校則を守らせるという行為(子供に判断をさせないという行為)の違いが分からない職員会議だった訳です。悲しい事実としては、校則を「体罰」で守らせようとする教師がまだまだ全国にたくさんいるのです。いつでしたか、鉄の扉に挟まれて殺されてしまった高校生がいましたね。 細かい校則を守らせる前に「判断の訓練」をさせましょう。これは、生徒を殺した高校や傷害事件をおこした生徒のいる中学だけの問題ではありません。実は、高校に入る前に中学にいます。中学に入る前は小学校にいます。小学校の頃から、「自己判断」の練習をさせていない限り、中学校に行っても急にはできません。中学でも自己判断の練習をさせて貰えないと、高校で急に自己判断などできません。高校でも校則などに縛られて自由な自己判断の練習をさせて貰えない子供たちの将来は明白です、自己管理のできない大人の立派な仲間入りということになっているのです。 ひどいのは体罰です。悪いことをすれば殴ってでも止めさせてやるという「親心」らしいのですが、これは「自己判断」をする機会を奪っています。そのような「親心」こそ大きなお世話です。いいじゃないですか?校則を破ろうが、煙草を吸おうが。それが、その時点での、その生徒の「自己判断(自己表現)」なのであって、それが、その時点での「社会的規範」にそぐわないと思えば、そぐわないことを伝えることで良いのです(社会的規範なんぞ数十年でガラッと変わってしまうこともつけ加えておくべきですが)。あとは、その生徒の判断に委ねるしかないのです。それが人権尊重です。それが生徒を信用するということです。信用しているということが相手の心まで伝われば、何かの反応があるはずです(その反応が自分にとって好ましい物でなかったとしても)。もし、心まで伝わらなかったとしたら、それは伝え方が悪いか、もしくは教師の人間性の劣悪さを生徒に見抜かれている場合でしょう。そんな人の言うことなんか誰も信用しませんから。 体罰を暴力とは認識していない教師たちは、多分、その人の成長課程で暴力を受けてきたことが推測できますが、その件については、専門家の成書によって学習して下さい。その人たちには自分自身の精神分析を行うことをおすすめいたしましょう。 |
7)各論
それでは、人権教育をどのようにしたらいいのでしょうか?まず、現場にいる人たちが「人権尊重」(子供を人として信用する)についての理解をしているという前提となることは既に述べました。そして、生徒たちの自己管理能力を伸ばして上げられる教師を増やさなくてはなりません。少なくとも「子供はまだ自己判断できる年ではないから」という考えを捨て去る必要があります。子供も大人である自分も同格であり、上下関係は存在しないことを認識して下さい。その時、「生徒は教わる側、教師は教える側」という役割分担を明確にしておけばよいでしょう。 実は、音楽や美術や書道など、芸術的な教科は人権意識を高めるためには、非常に好都合なのです。どうしてかというと、それは芸術は「自己表現」そのものだからですね。ですが、音楽的・美術的・書道的というのと、音楽そのもの、美術そのもの、書道そのものとは異なるという認識が必要です。 リコーダーを表面的には楽譜通りに吹きこなす生徒を100点とすると、もう音楽的教育となり、音楽教育ではありません。練習不足でたどたどしいが、楽しい曲を楽しく吹いた生徒に100点をあげるとすると、それが音楽教育ということになります。「リコーダーが嫌いだから、吹きたくない」という生徒がいれば、自己表現としては十分ですから、この子供にも100点をあげたい。それがどんな理由でもです(例:練習が嫌い、音楽の先生が嫌い、音楽の授業が嫌い、学校が嫌い、友達が上手だから嫌い、そもそも笛が嫌い、等)。嫌いなものを無理矢理押しつけることは、人権に反しています。どうしても「吹かせたい」のなら、リコーダーの魅力を身をもって示すという方法を取って下さい。規則で決められているからお前は笛を吹くべきであるという態度は、音楽という自己表現を教える場には相応しくありませんね。それでも好きにならなかったら、諦めるべきです。それが、生徒の芽を摘まないことにつながりますから。指導要綱は事務屋が作成していますから、完全に信用しないことをお勧めしておきましょう。表面上楽譜通り吹けているか否かでしかリコーダーの評価が出来ない人は、音楽指導を即刻おやめになるか、または修行を始めて下さい。 どう感じて、それをどう表現するか?情報を鏡のように反射させるのは表現ではありません。一度、頭もしくは心の中で一回りさせてから表現させるように努力して下さい。そして、その表現に対しては、どんな表現でも褒めて下さい。それが、自分の価値基準とは異なっても、必ず褒めるべきです。 同じ意味あいで、服装や髪型に興味を示している生徒があれば、どんどん褒めて下さい。もし「それは出来ないです」と言うのなら、「音楽を介して人権意識を」などというのは矛盾した「偽善」に他なりません。 注)「〜してはいけません」とたくさん書きましたが、この「いけません表現」の中から、私は何を言いたいのでしょう。規則とか規制とかの弊害を感じて欲しかったからです。セクハラ問題があると、どういうことがセクハラに当たるのでその行為は禁止するといったような規則を作ると、規則に書いて無ければ何をしても良いと解釈する輩がやたらに現れます。そのうち、規則に触れてもバレなければ良いという連中も出てきます。それは、現代の日本社会が証明していることです。セクハラ防止規則を信じ切っている日本人がラテン系の国に行って「おはよう!今日の君は綺麗だね、とくにその胸元がとてもセクシーだ」と挨拶が出来なければ、逆にセクハラと同程度の礼儀を知らない男性と思われるかもしれませんよ。ちょっと老婆心が過ぎましたでしょうか? |
8)学校音楽で注意すべきこと
いろいろの校外での音楽コンクールへの参加は注意して下さい。コンクールの開催意図や開催方針が十分に吟味される必要があります。たとえば合唱コンクールは、一種異様な世界を呈しています。いえ、校内の合唱コンクールではありません。NHKや合唱連盟などのコンクールです。NHKのコンクールの入賞団体発表の放映を見ると私は悲しくなる。完全に統一された(均一化された)表現内容、こんな馬鹿げたことはありません。アンサンブルとは言え、一人一人の個性が失われた状態での団体主義的な演奏はもはや音楽を逸脱していると感じています。中には、音楽技術のみのコーラスもたくさん見かけます。審査員たちも音楽家ばかりでなく、音楽科教育従事者(音楽を知らない人たち)も多いのです。こんな連中から金賞を貰ったとしても本来なら嬉しくもないのですが、素直な子供たちは金賞を貰ったとか、入賞できなかったとか、その結果に一喜一憂してしまいます。可哀想なことです。反論をお受けします。私も子供の頃に少年合唱団に所属していたのですが、指導者の磯部淑さん(先日亡くなられてしまいました)は、「満嶋くんが感じたように歌えばいいのですよ。みんなと同じでなくても良いのだから。でも、困るのは感じないで歌うことだよ」と大人の合唱団員に対する接し方と全く同じ接し方で小学生の私に接してくれたことを強烈に覚えています。大中恩さんという方も同じように接して下さいました。「はい、ここはこういう感情で歌って!ここはフォルテが付いているじゃないの、強く歌わなければ駄目じゃないの」といったレベルの低い音楽はもうこりごりです。 もう一点。先生自体の音楽性なり芸術性を高める努力を怠らないで下さい。最近どんな芸術的感動に触れましたか?と尋ねても、最近はちょっと忙しくてねえという答ばかりが気になります。毎日感動することができない人がどうして音楽を教えることができるでしょうか?人権を教えることが出来るでしょうか?先生方の奮闘に期待します。応援します。「美的センス」を磨いて下さい(だたし、音楽に捕らわれないで!)。美しい物を見聞し、醜い物を見聞し、美味しい物を食べ、美しい音楽を聴き、読書をよくして、質の良い香りを嗅ぎ、そして自らも絵や書をたしなみ、おしゃれを楽しみ、常に恋をしていることが必要かもしれませんね。こういうことを怠っていたとしたら、音楽教諭ではなく、事務屋ということになってしまうのです。いつもは上下ジャージで通していても、音楽の時には綺麗な洋服に着換えてから、という工夫も素敵ですね! なお、教材選びは自分で行って下さい。それが先生自身の「個性」の発言の場ともなります。どうしてもお困りになれば、メール下さい。また、一緒に考えましょう。 技術の問題に関しては、初等〜中等教育の現場に置いては、どうでも良いことです。たとえば俳句という音楽(文学とも捉えられますが)でも、問題は技術的に高いことよりも、情景を心に写してそれを表現する、ということこそ重要です。小手先の技術よりも新鮮な感動の方が重要です。たとえば書という音楽(書道とも捉えられますが)でも何もみんながみんな王羲之の技術を習得することは不要で、王羲之の表現しようとしたことを理解できる心の方が重要ですね。技術は高いことに越したことはない。でも、技術は音楽ではないのです。音程は正しいことに越したことはない。でも音程は音楽ではないのです。音楽そのもので生徒と接するようにして下さい。 |
9)取りあえずの終わりに
少し書き疲れましたから、このくらいで良いでしょうか?ねっ、参考程度にしかならなかったと思います。もう少し考えてから、書き始めるべきでしたが、とりあえず感想と言うことでご容赦下さい。 反論・賛成→こちらまで mann1952@bekkoame.ne.jp 1998.12.9 |
付録:
これまでの文章で腹が立った人のために、もう少し奮起して嫌みを書き連ねてみます。反論を受けるために敢えて書いてみます。いざ! 1)現時点で学校の管理職についている年代の人たちは、子供達の人権を無視する教育を強硬に実践してきた年代ですから、意識改革は相当に難しいかもしれません。体罰肯定、校則絶対、偏差値重視、といった誤ったことをやってきたのに反省もせずに、フォローアップもせずに、お偉いさんで通しているのだから。体罰はもう書きましたが、校則も「自己判断」「自己管理」する力を削いできたことも書きました。偏差値重視教育は「勉強する→偏差値を上げる→良い学校に入る→良い会社に入る→幸福」という妄想の上になりたっていたものです。偏差値が高くても、それが「幸福」である筈がないのはわかっていたのに。そして、いまや、良い会社に入ったのにリストラにあって苦労している人がたくさんいます。その人たちに「偏差値重視教育」を押しつけてきた教師たちはどう責任取るつもりなんでしょう。土下座して誤っていただきたいくらいです。いや、偏差値教育しか出来ない(知らない)校長もたくさんいて、今でもそれを続けている人もいるのです。困ったものです、硬直化した頭脳には新しい概念が生まれないのでしょうか? 2)自由と平等ということが基本的人権ということですが、自己管理と言うところが自由に属することです。もう書きました。自由の前提は「独立」ですし、独立するためには自己管理が必要です。もう一つの平等については、何しろ機会均等を目指して下さい。だたし、間違っては行けません。「回数を同じにする」というのが平等ではないのです。「順位をつけない」というのが平等ではないのです。「〜だから」となんらかの理由を付けて競争に参加させないことが不平等になるのです。健常者も身障者も、平等に競争に参加できる環境でなければいけません。大人も子供も同じ土俵で判断するという環境でなければならないのです。「聾唖者だから」といって音楽教育を拒むことも不平等です。ここまではある程度理解できると思いますが、さて、そこからが重要です。競争に参加する以上、必ず勝者と敗者が生まれます。ここを理解して下さい。そしてそれで良いのです。どこかのバカな校長がいて、運動会でビリになる子供が可哀想だからと、みんなで手をつないで、ゴールインさせるという話があります。この校長は、人権ということが理解できていないのですね。「みんなと同じ」ということが没個性であることすら理解できない校長なのですね。そればかりか「同質」であることを強要してきたと言う意味で、日本を駄目にしてきた張本人の一人と言えるでしょう。同じ土俵に上っても、足が早いという肉体的個性を持っている人は徒競走に勝って当然ですし、そのために隠れた努力をしているかもしれません。競争に負けた子供がその結果について何を考えどう判断するか、というところに重要な教育的要素があります。「手をつないでゴールしましょう」と言い続けたいのであれば、アジア大会に出かけていって、オリンピック会場に出かけていって、そう主張なさったら如何でしょう、「ビリになる選手がかわいそうじゃありませんか!」って。 3)教師側の基本的な姿勢は、子供の人権を尊重すると言うところでよろしいと思いますが、如何でしょうか?生徒の存在を認め、生徒の表現(とその自由)を認めるということですね。暴力という形、いじめという形、ファッション性で表現するなどというだけでなく、音楽や美術や書道と言った表現の形もあることを示してあげたいですね。それは、作品を作るというだけでなく、作品を鑑賞するという「表現」も含みます。もし、表現するという行為が下手な生徒がいたら、それこそ先生の腕の見せ所。 4)今、医療畑で「音楽療法」なるものが流行しつつありますが、本来なら「音楽」を「音楽的要素」と読み換えなくてはなりません。音楽で用いている音という構成要素を利用して、精神的または肉体的安定を図っているに過ぎないのです。音楽ではないのです。はじめに「音楽」という芸術ないしは楽しみが存在していて、音楽をやっているうちに(好きなことを続けているうちに)気が付いてみたらストレスも解消していた・・・というのが自然なのに、ストレスが溜まっている人に静かな音楽を聴かせるとα波が増えて落ちついた、などと本末転倒が蔓延しているのです。アロマセラピーにせよ、音楽療法にせよ、基本的なスタンスが奇妙だと思っています。 今、健康についての論議が盛んですが、これもおかしなことになっているようです。本来なら「人生の目的」を持っている人が、その目的を「達成するために」健康を保持していこうということだと思うのですが、最近の風潮では人生の目的など持たなくてもいいからともかく健康になりましょうということになっているようです。子供まで「これは健康にいいらしい」「これは身体に良くないんじゃないの?」「小学生からダイエットしなくちゃ!」などと発言するようになっています。人生の目的を子供たちと議論することを忘れて、子供までブームに引き込んでいるのは誰なのでしょうか? 人権意識の昂揚というも活動もまるで流行のように行われ始めました。役所の活動では「差別意識の撤廃」という運動が多いようです。人を人として尊重しようという肯定的な運動ではなくて、「〜をしてはいけません」という否定的な運動なのです。すでに述べてきました。差別撤廃は実は「音楽療法」と同じように、本当の人権教育ではなく、人権関連科目に過ぎないことを思い知って下さい。差別撤廃という活動方針は体育系の合宿のルールと同じで、自己意識を目覚めさせるというキャッチコピーとはまったく逆の運動だと言うことを理解して置いて下さい。 5)たぶん、先生方の学校にも、個性の芽をつみとり続けて何十年という老練な教諭もおられることでしょう。許されないのは次のフレーズ:「なんだ、その目は、その態度は。それが教師に向かってとる態度か!?」。明らかに自分が生徒よりも「上」の立場にいることを表しています。子供の人権が無視されています。そんな教師だからこそ、「そんな態度」を子供が取るのは当然ではないでしょうか?子供も大人も対等であることを思い出すべきです。 6)こんな会話をした経験はありませんか?
こんな会話が生徒を無視し、生徒の信頼を無くしていることに気が付いていないのです。大人は話をすりかえるということを教えるためにわざとやっているのでしょうか?大人は筋を曲げるものだということを身を以て示しているのでしょうか?いえいえ、そこまで考えているのなら、こんな会話はしないでしょう。支離滅裂はなはだしいもの。筋を通すのであれば、今日から以下のような会話に変えて見ませんか?
7)人権を英語で言うと、human
rights、personal rights、the rights of man、civil
libertiesなどが宛てられます。基本的人権だと fundamental
human rights になります。個性ということになると、personality
か individuality でしょうか。character
が良いときもあるでしょうか。日本語で個性とか人権などを考えると、あまりに抽象的ですから、たまには英語で考えてみると参考になると思います。それぞれ少しづつニュアンスが違いますから、そのときどきに適した語を使えばよいのです。例えば「蓼喰う虫も好き好き」と言う「好み」も個性と訳しても良いのですから、柔軟に言葉を駆使して下さい。同和関連の活動をなさっている方は、是非ともイギリスやアメリカの人権擁護の書物を原語で読むようにして下さい。日本の同和関連の書物は少し偏った感じです。皆さんは大学を卒業してきた訳ですから英語が読めないとは言わせません。日本の狭い領域で人権を考えずに、広い視野に立って考察をすることは重要です。 8)部落問題(被差別部落解放運動)から必ず離脱してから、人権についての教育を論じることが重要です。部落問題は、人権問題の単なる各論の一つに過ぎません。部落問題ばかりに偏っていれば、結果的に偏った考えになってしまいます。教員たちは訳の分からないまま泥沼に落ち込んでいくことでしょう。現在の日本の「人権問題」といえば同和運動を切っても切れない関係にあることを承知していますが、しかし、これは変なのです。先に書いたように人権問題の中に「被差別部落」の問題もあるのですが、最初から被差別部落の問題を取り上げて、それを深く掘り下げることはそれこそ「差別」なのです。 9)自己管理できない大人たちという表現にお腹立ちの向きもあるでしょう。現実として、体育系ではプロでさえ自己管理能力が無いことは明白です。体育系の部活の指導者はとくに留意して下さい。あなたがたは子供たちの人権を無視している可能性が大です。自己分析を行った上での反論をお受けします。 |
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