音楽教育について考える 満嶋 明 |
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第1部:まず自分自身の開拓から
●音楽教育ということについて、真向から考えてみましょう。
● 第1部の目次
1 日本における音楽教育のパターン 2 3つのステップ 3 「音楽」ないし「芸術」での問題 4 音楽芸術のなりたち 1) 聴く段階、 2) 知る段階: 3) 比べる段階、 4) 行なう段階: 5 教育理念の問題 6 指導方法の問題 1) 指の訓練、2) 頭の訓練、3) 演奏の訓練: 7 音楽の指導ということ 付録:教習書について
1 日本における音楽教育のパターン 【第1部の目次に戻る】
日本音楽(邦楽)の「伝授」の方法は、といえばそれは口伝といっても良いでしょう。口移し。それが器楽ならば、お師匠さんの弾くとうりに真似をして弾く。上手でなければ、駄目だと言われる。またお稽古をして真似をして弾く。文字通り「模倣」をする。”ならう”という漢字は、「習う」という他に「倣う」というのもご存じでしょう。そのうちに段々と上手になって、そのうちに「本当」に「分る」になる。でも「分る」ようになるのは、随分あとになってからのことです。 このような伝授を、別の側面から見れば「先に技術を教える」ということです。技術だけを取敢えず磨かせて、「心」はお師匠さんから「盗んで」くれるのを待つ。あるいは、心が理解できるような環境の中に身をおかせる。そういった教授法が江戸時代(いやもっと前?)から続いています。明治時代になって西洋音楽というものが日本に輸入されてからも、この伝統的な伝授の方法はそのまま引きつがれてきていると言ってもよいでしょう。ピアノ教室に通う子供たちは次から次に曲を貰い、それが上手でなければ駄目だといわれ、またお稽古をして先生の真似をして弾く。取敢えず弾けたら(曲の完成はさせて貰えずに)、次の曲目(次のランク)に進む。音楽的な「心」は後から先生から盗んでくれるに違いない!! 日本的な伝授方法をいちがい否定するつもりはありません。日本の芸事の「美」には、「型」というものが含まれています。それは日本の音楽にとどまらず、踊り、演劇、絵画、茶道、華道、武道、なんでも「型」というものが重要視されていることからも分りますよね。こういった「型」を修得するには、口伝によって型にはまった事ができるようにする。これは重要なことです。そして、十分に心と技術を修得した人だけが「型やぶり」ということを許される。「型」のできていない人は「型やぶり」など出来ようはずもありませんね。では、この日本的な伝統のある教授法は本当に西洋音楽の教授にも役立つのでしょうか。答は、No、だと私は考えています。 驚いた方も多いでしょう。なるほど、皆さんの思われる通り、全く役に立たないということはありえません。でも、私が設定した問は「西洋音楽」の教育、だったのです。ピアノ(他の楽器においても同じですが)の技術はなるほど確実に生徒たちは修得をしてくれるでしょう。でも、日本音楽の伝授の場合は、生徒たちの廻りに日本的な風土があり、日本語が話され、日本の文化がそれでもまだ累々として続いているこの環境の中でこそ、伝統的な教授法で旨く行くのだと考えられないでしょうか。逆に、私達の廻りには、残念ながら、環境としてのウィンナワルツやイタリアオペラやカトリックのミサ等が皆無です。技術をだけ教えて、あとは盗んで貰うにしても、環境からもピアノの先生からも、盗むべきものが無い場合も大いにありうるのです。 どうしたら、良いのでしょうか。いや、簡単なこと。皆さんがその環境作りをしてあげれば良いのです。でも、少しばかり勉強をしないと、環境作りは難しいに違いありません。 まず、具体的に音楽の教育について考えてみることから始めてみましょう。 |
2 3つのステップ 【第1部の目次に戻る】
ピアノの教育に限らず、音楽教育を行なう時に生じる基本的な問題は、3つのステップに分けて考えることができます。第1ステップは、教育者自身の「音楽」ないし「芸術」の程度の問題です。教育者自身が「技術」だけではなく、「音楽」あるいは「芸術」として伝えるべきものを持っていなければなりません。第2ステップとしては教育理念の問題です。教育者自身の「音楽」ないし「芸術」の中から果して何を選び、どのような順序で教育すべきか等についての「教育理念」(または教育方針)をもたねばなりません。そして第3ステップとして、実践的な指導法の問題です。「教育理念」に即して、しかも具体的であり実践的でもある「指導法」を確立しなければなりません。また、生徒個人々々にあわせてフレキシブルに対応できる指導法が望まれます。 このように書くと非常に難しくなってしまいました。簡単にまとめると、「1.自分自身の音楽をしっかりと保ち、2.何を伝えたいかをはっきりと自覚し、3.それを教えられるような方法を用いるようにする」ということです。もし、あなたが演奏家であるのならば、1.だけで結構ですし、後は練習をするだけです。しかし、教師には 2. と 3. が必須となるのはお分りですね。ところが、大学のピアノ科では演奏家になるべく学生を教育する。ピアノ教師になるための教育など余りしません。となると、ピアノ科を卒業した人は、ほかの科、例えば音楽教育科やそういった短期大学などに比べて、教育には全くの素人と考えた方が良いのです。自分がピアノ科を出たことを鼻にかけて、自分はピアノのプロだ、といった顔をする人には本当に閉口します。演奏は確かに旨い人もいるかもしれませんが、演奏が旨いことと教育が旨いこととは別問題ということを知らない人が多いのには困ってしまいます。 さあ、ピアノ教師という重要な仕事をする皆さん、一緒に勉強しましょう。「まあ、田舎に返ってピアノ教師でもするか」という人には、もうこれを読む必要はありませんね。ピアノを通じて音楽を教える、という何という重要で、責任が重く、そして喜びも大きい職業に積極的に取り組もうとする貴方のためにこそ、読んでいただきたいと思うのです。 ピアノを教えるのではなく、ピアノを通じて音楽を教える、という大きな使命。「音楽」を教える、という所に原点を皆さんが見出せば、きっとこの小冊子の意図を理解していただけると考えています。「ピアノが先に存在していて、後から音楽がついてくる」のではなく、「最初に表現したいと思う音楽が存在して、それをたまたまピアノという楽器で表現する」という順序を子供たちに知って貰うためにも、この3つのステップをふまえながら、レッスンを行ないたいですね。小さい時から超一流の商業的ピアニストを育てるのであれば、別の方法もあるのかもしれませんが、一般的には「心の中にまず音楽を育て、それをあるいはピアノで、あるいは声で、演奏してゆく」という原則を貫くべきだと私は考えています。 でも、何故そこまで音楽教育を考えなければならないのでしょうか。ピアノに親しむだけを目的とする生徒(あるいは母親たち)も多い中で、そこまで芸術教育について熱心に考える必要があるのでしょうか。その答を出すために、逆の質問をしてみましょう。もし、ピアノ教育をそこまで熱心にやらなかった場合、どうなるでしょうか? その答は、「若い子供の内にこそ伸びる音楽の芽を摘みとってしまう危険が増大するだろう」です。「音楽やピアノに親しむだけだから」と安易に教えるという行為が、実は、その生徒が持っている芽をもぎ取とってしまうことにつながるのです。もっとひどい場合には、「嘘」を教えこむことにもなりかねません。(今だに、チェルニー版でインヴェンションを教えているピアノの先生には困ったものですよね。)そうなったら、大変なことです。さあ、少し、熱心になって音楽教育や芸術教育について考えてみませんか? |
3 「音楽」ないし「芸術」での問題 【第1部の目次に戻る】
それでは第1ステップの問題から順に、どうやって自己を改革あるいは開拓すれば良いのか、について若干の提言を交えながら考えていきましょう。まず、あなた自身がこれまで受けてきた教育というものを考えてみましょう。子供の頃、中・高生の頃、大学で、卒業後の個人的な師事によって、音楽に関して「何」を教わってきたのかを少し考えて、思い出してみて下さい。音楽そのものでしたか? それともピアノ技術でしたか?音楽的知識でしたか? もしも「音楽そのもの」であるとしたら、それは何時の頃からでしたか? 子供の頃からでしたか?きっと大部分の人にとって、本当に「音楽」らしいものを自覚し、あるいは感覚し始めるのは大学生の時か、または卒業してからの場合が多いようですね。それは、学校を卒業して初めて判かってくることの多さ、によっても理解できるでしょう。何故そんなことになってしまったのでしょう? それは実は、先生たちが「音楽」の指導をしてくれなかったからに他なりません(先生たちもあなたがたと同じような教育しか受けていなかったのですから責めないで下さい)。自分たちの生徒が、あなたと同じような歴史を歩まないためにも(随分と年をとってから理解が深まった!というような)、何が「音楽的」であり、何がそうでないか、について子供のころから自然に教育してゆきたいものです。子供のために音楽的な良い環境を作ってあげたいものです。 そのためには何をしなくてはならないのでしょうか? それには自分自身の音楽をはっきりと見つめて、何が足りていて何が不足なのかを理解し、自分の「音楽」を成長させることを考えるべきなのです。ピアノ教師自身の音楽観ないし芸術観の程度が教育のすべてを左右することになりますから、努力を要する所です。ピアノ教師は、ピアノ技術訓練師などではなく、ピアノを通じて音楽を、そして芸術を教えていくべき使命を帯びているのですよね。 それでは、どうやって自分の音楽を見直せば良いのでしょうか。それを理解するには、少々難しく感じるかもしれませんが、自分自身の中での音楽芸術のなりたちを考える必要があります。少し回り道かもしれませんが一緒に考えてみてください。
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4 音楽芸術のなりたち 【第1部の目次に戻る】
個人の中で、音楽そのもの、あるいは音楽観というものは段階を経て培われてくるように思えます。そこで、ここでは私案として仮に、1)聴く段階、2)知る段階、3)比べる段階(判る段階)、4)行なう段階、というふうに設定してみることにいたします。これらの段階を経るうちに、個人の中に音楽がなりたってくると考えてみようというわけです。 |
1) 聴く段階: 聴くための耳を育てるという意味でもあり、多くの音楽にふれるという意味でもあります。良い音とそうでない音、微妙な音程(平均率ばかりでなく)、楽器による音色の違い、等は聴くという姿勢から次第に理解できるようになるものですね。それは音楽の基本的な楽しみでもあり、基本的な技術にもなりましょう。単に聴くということもあれば、聴き比べることも必要となってくるでしょう。平均律のみの耳だけでは音楽全体を語ろうとしても無理が生じてくるでしょう。ピアノしか聴いたことのない人は、鍵盤楽器以外の演奏家たちがどれほど苦心して音程を作りだしているか、についても理解ができないでしょう。鍵盤のタッチの問題よりももっと微妙なことが行われていることを聞き分けることもできないでしょう。逆によくピアノを聴いていなければ、ピアノのタッチの違いが分らないことと同じです。耳を育て、さらに多くの音楽にふれるということが本当に大切であると痛感されますね。また、たくさんの音程や旋律を同時に聴くという楽しみも子供の頃から楽しみたいものです。第一バイオリンの華やかな音ばかりでなく、第二バイオリンやビオラの音も同時に聞えていて欲しいものです。耳を鍛えるのは若い頃から始めさせた方が良いでしょう。ある程度に年齢が進むと「聴く耳」を育てることが少し困難になるからです。知識が増すにつれ、単純に素直に音を聴くことがむつかしくなってくるからです。 多くの音楽にふれるという観点から見れば、ピアノ以外の音楽を聴くことも重要となってきますね。ピアノの生まれる前の時代の音楽、ピアノが生まれた後の音楽、弦楽器、管楽器、声楽、その他の民族音楽。あなたはどれが好きで、どれをよく楽しんでいますか?ピアノ音楽という非常に狭いジャンルだけではとても音楽は語れないのですから、たくさんの音を聞き、いろいろな音楽に触れることが大切であることは理解いただけますね? この聴く段階は一生つづけることとなるでしょう。それは音楽の最大の楽しみのひとつでもあります。そして、これまであなたが聴いてきたたくさんのものの中から、生徒にとって今一番必要と思われるものをひとつ選んで、心から勧めることができます、「○○さん、今度はこれを聴いてみましょう!」と。生徒たちのための環境作りは、実に自分自身のための環境作りでもあることを、皆さんはもう理解しておられますね。
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2) 知る段階: いろいろな音楽を聴く中で、次第に音楽的な知識が増してくると同時に、知的欲求も増してくるのが自然でしょう。ピアノとチェンバロはどう違うのかしら? どうして違うの? どうしてJ.B.バッハの鍵盤曲にはクレッシェンドがついてないの? ではクレッシェンドの付けられたこのバッハの楽譜はどういうこと? どうしてバッハをピアノで演奏するの? じゃぁ、バッハをピアノで弾くときにはどうすればいいの? バロック時代のトリオって3人でなくどうして四人で演奏するの? フルートやサキソフォンは木管楽器と習ったけど、どうして金属なの? ポリフォニーって簡単に言えばどうゆうこと? ルネサンス音楽とバロック音楽と古典派とロマン派と近代音楽と現代音楽とは何がどう違うの? ソナタとソナタ形式って違うの? ソナタ形式って堅苦しいけど、楽しむ方法はあるの? どうしてソナタ形式って、あんな風になったの? ソナタの第1楽章のリピート記号は大嫌いだけど、どうしてどの曲にもリピートがついているの(必要な規則なの?)? ウィンナワルツってどんなワルツなの? メヌエットってどんなおどりなの、先生おどってみて? アダージョとレントと何が違うの? これらの生徒たちの質問について明快に答えられたら、どんなにか素敵でしょう。その時、あなたは随分と物知りになっているでしょうし、きっと音楽が随分とわかり、そして楽しんでおられることでしょう。 今からでも十分間にあいますから、頑張っていろいろな事を勉強してください。独学に必要となってくるものは、どうしても書物ということになります。辞典や評論、解説書などを十分に活用して音楽的な知識を充足して下さい。音楽史、和声法、対位法、など大学で形ばかりで教わった項目、単位だけが目的だった教科も実は大変に重要な知識であることが次第に判かってくる筈です。そしていつの日か生徒たちに自身をもって勧めることができるでしょう、「今度は、これについて勉強してみない?」と。私達の廻りには存在していない”環境”をせめて知識の中からでも、吸収してもらうことも、とても大切です。 では、自分自身の勉強の方法としてどんなことをすれば良いでしょうか。和声法や対位法を本格的にもう一度勉強するとなると大変時間のかかることです(でも、楽譜がサッと読めるようになるには重要な技術ですよ)。もっと楽な方法にしましょう。それは音楽辞典を使うことをお勧めします。音友の標準音楽辞典の新訂版で良いでしょう。始めからでも良いですし、すきな頁からでも良いですから、一項目づつ読破します。その中で良く知っていることは確認をしながら読み飛ばし、知らない事、知らなかった事がでてくれば、その点について勉強を始めます(中には興味のわかない項目もあるでしょうが、いづれ役に立ちますから我慢して)。友人に詳しい人がいれば聞いてみたり、あるいは別の書物を引っぱりだすことも必要でしょう。ただ、あせっては長続きしないので、のんびりと知識をふやします。 もうひとつの課題は、音楽の歴史について、です(単に年表を覚えるというのではありませんよ)。自分自身の中に音楽歴史観というようなものを形成することが重要なことなのです。時代によって音楽のしくみ(様式)が異なっていますし、さらに同じ時代でも場所によって異なることもあります。様式を間違えてピアノまたは音楽を教えることは大変恐ろしいことです。また作曲家によっては一時代前の音楽様式をわざと取り入れて作曲をしたりもしますから、理解できる能力が必要になるでしょう。ブラームスはロマン派、ハイドンは古典派、とかの語句だけではなく、ロマン派とは一体どんなものなのか、他とはどう違うのかを頭と心と体で理解する必要があるという訳です。 なかなか良い書物は見つかりません。もっぱらレコードがよい先生となってくれることでしょう。なるべく同じ時代のものを固めてきくようにして、その時代の音楽の特徴を耳と頭と体で実体験をして下さい。古い時代の音楽はなるべく古い楽器を用いた演奏のものが適切だと思われます。また、ピアノ作品ばかりでなく弦や管の作品を聞くことも重要ですね。聴くことは、つまり1)聴く段階を同時進行できますね。
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3) 比べる段階: いろいろなものを体験し、いろいろな事を知識したあとで、次に比べる(あるいはまとめる)段階に入ります。バロックと古典派を比べる、ビオラとヴィオラダガンバを比べる、チェンバロとピアノを比べる、ホモフォニーとヘテロフォニーを比べる、サリエリとモーツァルトを比べる、ルネサンス音楽とルネサンス美術を比べる、ベートーヴェンとブラームスを比べる、ベームとカラヤンとを比べる、同じ時代のイタリアとイギリスの音楽を比べる、クラリネットのB管とEs管を比べる、自分のステレオ装置と他人のステレオ装置を比べる、シューベルトが食べていたものとブルックナーの食べていたものを比べる、など例をあげれば限りがありませんね。このような比較(つまり疑問や問かけ)を自分で設定して、自分で答えるうちに、自身の中に自分なりの理解の仕方や好みが自然に形成されていきます。これは発育期にある子供たちにとっても、どんなにか重要な事でしょう。ただお仕着せに、これはいいもの、これはだめなもの、と初めから決めたり決められたりすると、子供は自分で判断しなくてもいいものだと思うようになり、つまりは創造的な活動をやめてしまうかもしれません。「あの人の演奏はとても上手だけれど、私は好きではない、だって……だから。」などと子供たちが言いだすのはとても素敵なことです。 実は、第一段階や第二段階は、あまり考えなくても良かったのですが、比べる段階になると「判断」が必要になってきます。そしてその判断にはある程度の根拠が必要になるでしょう。客観的な事実とそして個人の好み(主観)という根拠が。音楽を行なうという第四段階に必要なこの「判断」の訓練がこの比べる段階で培われていきます。これまで、聴く、知る、の段階で身についたものがいよいよ発揮されることとなるわけです。とぼしい体験、乏しい知識では間違った判断をするかもしれません。
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4) 行なう段階: いよいよ行なう段階です。行なうとは、1.演奏を聴く、2.演奏をする、に集約されるでしょう。これまで自分の中に造りあげた音楽観で誠心誠意、他人の演奏を聴き、また楽しむ(批判的でなく)ということが、あの第一段階でなく、最終段階でもあることに気がつきます。聴く・知る・比べるで培った音楽で、相手の音楽をあらためて聴くということになります。 そして演奏!自分の音楽観をもとにそれに即した演奏を行なう、ということでしょうか。この時、子供のころから行なっていた技術的な訓練の成果が顕われてくるでしょう。この訓練の問題は後で触れるので、ここでは省略をしておきます。演奏するにあたっては、単に感性(主観)だけではなく、聴く・知る・比べるで培った音楽観(客観)を伴った自分だけの音楽を心掛けます。レコードのテンポや批評家の講釈に迷わされることなく、自分の主観と客観に支えられた自分の音楽を形成したいものです。自分自身の歌、しかも単に一人よがりではない、自分の音楽ですよ。ここで気をつけたいのは人のまね、です。学ぶということは、まねることから始まることかもしれません。でも、ここは行なう段階であるのです。行なう段階にいたれば、自分の音楽を主張すべきなのです。ですから、心から歌う、ということが必要となってくるでしょう。ただ、敖慢になってはいけませんから、人の意見や批評は、頭の「客観」の部分で素直に冷静に受け止めておくと良いでしょう。最初の間は、主観と客観のバランスがつかめないかもしれません。主観だけの一人よがりの演奏になってしまったり、あるいは客観だけの死んだような演奏(歌っていない演奏)になってしまったりするでしょう。主観と客観のバランスは、「聴く」〜「行なう」を続けていれば自然に理解ができるようになりますから、あせらずに続けてください。 音楽を行っている(聴く、そして演奏する)ということが、ピアノの先生にとって、最も重要なことに気がつかれた方も多いことでしょう。ピアノ技術だけならば、先生が音楽を常に行っていなくても関係のないことかもしれませんが。音楽を行っている先生、これが一番身近で、一番重要な環境だから。 このようにして個人々々の中に音楽がなりたち、そして育っていきます。私案に基づいたものですから、順序は必ずしも今述べたものになっていないかもしれません。けれども、それぞれの段階が個人の中で体験されていてこそ、本当の意味での音楽が育っていく、と考えても良いでしょう。もし、それぞれの段階のうち、自分の中に不足している部分があれば、今から補っていきましょう。そうして自分自身の中に、確固とした音楽芸術を確立することを目指して下さい。(そうなった時、音楽以外の芸術分野に対してもきっと目がひらいている筈ですよ。)
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5 教育理念の問題 【第1部の目次に戻る】
次は当初に掲げた3つのステップのうちの2番目、教育理念または教育方針の問題です。ただし、ピアノ教師自身が音楽観を常に成長させようと努力し、しかもそれがある程度質の高いこと、を前提にしていることは言うまでもありません。 簡単に言えば「何を教えたいのか」という事です。当然のこととして基本的なピアノ奏法をあげなければなりません。問題はそれだけで良いのか、ということでしょう。それだけでは充分ではないことはもうおわかりですね。では、何を、追加したら良いのでしょうか? その答を言ってしまいましょう。「生徒の音楽の芽を伸ばすこと」なのです。音楽の芽を伸ばす、一体どうすれば良いのでしょうか。それを、これまで用いた言葉で表せば、「芸術のなりたちのための経験を手伝ってあげること」ではないでしょうか。 音楽の芽を伸ばすために、具体的には何をしたら良いでしょう。考えてみれば、教材はいくらでもある筈ですよね。これまでやってきた、聴く・知る・比べる・行なう、という自分の音楽を成り立たせてきた全てのものが教材となるからです。それにピアノそのものがあります。さらにピアノ奏法もありますね。これらの多くの教材を使って自分は生徒に何を伝えようとしているのか、教えようとしているのかを、考えればおのずと具体的な答がでてくる筈です。芸術のなりたちといっても抽象的に過ぎますから、具体的な言葉で考えてみればいいのです。音楽の楽しみかた、演奏の楽しさ、アンサンブルの楽しみ、音の不思議さ、ピアノの美しい音色、楽譜から得られるもの、和音の美しさ、何でもよいですから、ご自分で決めてください。本当のことを言えば、生徒一人一人に適した別々の教育方針を持つべきですが、最初は自分自身でできることから始めましょう。自分は本当は何を子供たちに伝えたいのか? この答を出すのはあなた自身以外にはありません。私はあなたではありませんから。 一言注意をすれば、これだけは絶対に選んでほしくないものがあります。「自分の感性を伝えたい」というテーマです。これは敖慢以外の何ものでもありません。感性は個人の主観ですから、これは個人の責任に帰属するもので、他人から押しつけられるものではありません。もし、生徒が自分の感性を気にいってくれた場合には、その時には、生徒が勝手に真似を始めることでしょう(盗んでくれる!!)。感性(感じ方)を伝えたい、と思った瞬間からレッスンはある意味で拷問に変わり、音楽の芽を摘みとることになります。
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6 指導方法の問題 【第1部の目次に戻る】
さて、いよいよ第3ステップの指導方法の問題です。指導する内容を考えてみると、1.指の訓練、2.頭の訓練、3.演奏の訓練、となりますでしょう(他にも区別の方法があるかもしれませんが)。ところが、現在、最も問題視しなければならないことは、これらの3つの「別々に行うべき訓練」が、混然となってしまっていること、または、指の訓練だけに陥ってしまっていること、なのです。ある時期にはそれらを一括して訓練することもあると思いますが、本来ならば、別々にカリキュラムをたてるべきです。悪い例としては、たとえば、指の訓練の練習曲と同じ難易度の演奏曲目を同時に弾かせたり(=指と演奏の訓練を同時に行っている;演奏曲目は指の訓練の曲よりも格段に難易度を下げるべきです)、まだ曲を充分に理解していない段階でも指が動くから(最後までミスせずに弾けるから)おさらい会で演奏をさせる(=頭の訓練をとばして、演奏の訓練もとばして、指の訓練だけで演奏をさせてしまう;とくにソナタ形式など、教師も理解していないケースも多い)など、よく見掛けます。計画的に、初めに掲げた3つの訓練要素を組み合せて訓練を行なってください。その時に、何を教えたいのか、という教育方針を加味すれば教材選びには苦労はしないはずです。
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1) 指の訓練: ピアノの教師のみなさんに向かって、今さら書くことはありません。ここでは、耳とアーティキュレーションについてだけ触れておきましょう。 音色を聞き分けられる年齢の生徒には「聴く」耳を持たせることを忘れないで下さい。指の訓練の目的は、よく動く指をつくる、それとと、もうひとつ大事なこと、よい音がだせる指をつくる、ですよね。つねに良い音色(または悪い音色)の手本を示しながら訓練をさせて下さい。それは、聴く耳を育てつつ、聴く段階のお手伝いするということが、指の訓練と同時に行なえるのです。そう、「耳を育てる」ことを忘れないことですよ。ほら、耳のことをついつい忘れてしまうでしょう。 ハノンのような反復練習の場合には、単なる機械的な訓練ではなく、実際の演奏時に役立つようなアーティキレーションを考えてあげてください。そうすることによって、子供たちは楽譜に記されていないアーティキレーションを自分で楽譜から引き出せるようになるでしょう。打楽器としてのピアノを最大限ひきこなすには、アーティキュレーションが重要です。でも、それを指摘しまた実践している人はまだまだ少ないようです。木管楽器の演奏をたくさん聞いてみてください。彼等がどんなにアーティキュレーションを工夫していることか。
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2) 頭の訓練: 音楽学的な事柄は、生徒たちは知らされていません。アンダンテとモデラートの意味の違いをメトロノーム記号によってのみしか理解をしていませんでしょう。全く同じテンポでも、演奏によってはアンダンテになったりモデラートになったりすることがありうることも知りません。スラーやスタッカートのついていない連音にはアーティキレーションは必要ないと思っています。バッハがどの時代の作曲家で、モーツァルトが何年ころのどこの国の人か等知りません。楽譜についている四分休譜やスタッカートがただ付けられているのではなく、本当にそこに休譜や記号があることが必要であることを理解していません。スラーが実はアクセント(音価的に)を示している場合があるということも知りません。記号通りに弾けば良いのではなく、音楽的に弾きさえすれば、結果的にその記号通りになってしまう、ということも知りません。自分の音楽のなりたちの中で知る段階があったことを思い出して下さい。折にふれて音楽的な、あるいは音楽以外の知識を必要に応じて与えます。そうすることによって、演奏をする楽しさを増すことを覚えてくれるでしょう。そして、これは、やみくもに感性だけで演奏する、ということを防止できるでしょう。
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3) 演奏の訓練: これがなかなかに難しいことです。歌いたい、という気持がなければ本当は音楽は成長していかないのです。ですから歌う、あるいは演奏するという気持を、次第に心の中に形成してあげること、これは本当の意味での、最終的な教育目標かもしれませんね。歌いたい、演奏したい、という気持が育てば、子供たちも練習が楽しくなるでしょうね。 それには、まず指にとっては易しいレベルの曲目をなるべく多く選んで、演奏させましょう。それぞれの段階に適した曲目がすべて市販されているとは限りませんが「演奏目的のための演奏」(つまり歌うこと)を生徒の心の中に育てる必要があります。先にも書きましたが、指の訓練で用いている曲目を(指の訓練そのものとして)おさらい会で弾かせていること(”演奏”ではなく)程、ひどいことはありません。彼等は演奏であることを全く意識させて貰えず(人前での”練習”に緊張はしていますが)、ただ指が動いているにすぎないのです。つまり、音楽を行なうことはなく、指がこんなに動きますよというパフォーマンスをしているだけです。心からの歌を相手の心に投げかける、なんて事はさせてもらえないのです。選曲に親の見栄が入ってくるともう最悪です。あの子はあんな曲を弾かせてもらっているのに、うちの子はコンナ曲、先生、なんとかしてください。その結果、みんな「上手」に弾いているけれど、音楽なんかじゃない。歌じゃないんだもの。こんな悲惨なおさらい会を全国どこででも見ることができます。改めてください。 さて、演奏するということはどういう段階でしたでしょうか。主観と客観のバランスをとりながら、自分自身の音楽を作っていくことでした。子供であってもその原則を崩すことはいけません。ここはフォルテが付いているじゃないの! どうして強く弾かないの!と叱ってはいませんか? それは指の訓練の時に言うべきで、演奏のための練習のときには言ってはいけません。「私だったら、ここのフォルテはこの位で弾くけれど、あなたはどう弾きたいの? どう歌いたいの?」と注意を喚起する程度にしたいですね。(こう弾きなさい、というのはあなたの感性を押し付ける、ということです。指の訓練の段階では、色々なフォルテを体験させることは良いでしょう。でも、演奏の訓練、では本人の歌をお手伝いする、というのが良いのです。) そこで、子供たちにのびのびと歌わせてあげるためには、指の能力を極端に上回るレベルの曲目は絶対に避けるべきなのです。充分に指が動くので他の事柄に注意を向ける余裕ができるような、つまり音楽的なことが充分できるような、歌えるような曲目を選んであげてください。そうでなければ、演奏の訓練、歌うという訓練、歌いたいという気持を育てる、なんてできっこないのです。 自分自身も常に演奏を行なうことを心掛けることは大切なことです。見本として生徒に曲を聞かせるのではなく、自分自身の音楽として、つまり自分自身の歌を聴かせてあげてください。自分自身の訓練のためには、つぎのことに注意すると良いでしょう。 常に一定のテンポで練習・演奏するのではなく、1曲について少なくとも5〜6種類のテンポをつくって演奏ができるようにして下さい。演奏の時に、どのテンポを選ぶかは、当日の自分の感性、体調、会場の大きさ、聴き手の人数とか年齢とか、などを総合して最も当日に適したものを選べるようにするのです。ディナーミクやアーティクレーションについても何種類かを用意して下さい。一種類しかテンポやディナーミクが頭に浮かばない初心者は、どうぞ、レコードをきいて色々な演奏を比べましょう(まねる目的ではなく)。そのような訓練を続けるうちに、他人の演奏を聴かずとも、一曲について十通り位の演奏が頭に浮かんでくるようになります。それが頭に浮かばなくたったら、スランプに陥ったら、もう一度、聴く・知る・比べることを思い出して下さい。そして最終的に答を与えてくれるのは、楽譜であることを知っておくと良いでしょう。
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7 音楽の指導ということ 【第1部の目次に戻る】
これまでのことを別の観点からまとめてみると、(1) ピアノ教師はピアノ技術だけではいけない、ということを再確認しよう、(2) ピアノ教師が成長するためには、自分自身の音楽を再認識しよう、(3) 不足している部分を補っていこう、ということになると思います。 ピアノ科を卒業したての人は指はよく動く(難しい曲をとりあえずは弾ける)けれど、「音楽的な」演奏は下手である、という現況は、聴く・知る・比べる・行なうという音楽芸術のなりたちのどこかが不足がちであることを物語っています。俗に、「どこ出たの?」「xx大学ピアノ科ッ」「なァんだ、ピアノかァ〜」というように、ピアノ科出身は指が動くだけで音楽的には何も知らない、という悪口もある位ですから。つまり、その人が周りの人、つまり先生たちに適切な「環境」を与えて貰えなかったということでしょう。指の訓練ばかりになっているのかもしれません。同じことを繰り替えさせないためにも、どうぞ頑張って下さい。自分が演奏し(歌い)、そして歌うことを教えてゆくということ、それが音楽の指導ということではないでしょうか。子供たちの心と頭のなかに音楽がなりたってゆくお手伝いをし、歌うという心を育て、そして指の訓練をしてあげる、大変で重要な仕事です。心から応援をいたします。
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付録 教習書について 【第1部の目次に戻る】
いろいろな教習書が販売されています。どれを用いても良いと思います。ただ、自分の教育方針と教習書の編集方針が異なる時にはどんどんページをとばして(省略して)用いたほうが、つまり自分の教育方針を優先させたほうが良いでしょう。それがあなた自身だからです。大手の音楽関連企業が商業主義に則ったまま音楽教育カリキュラムを構成し日本中にばら撒いています。それを用いることは決して悪いことではありませんが、若いピアノ教師たちがそのカリキュラムの良い所、悪い所を理解せずにそのまま受け入れて、これだけやれば良い、と割りきってしまっていることが少しだけ心配です。音楽を、芸術を伝えること、を忘れてしまう危険性があるからです。何を教えたいのか、という第2ステップに舞もどってから第3ステップを実行しましょう。
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