リートって何 ?       満嶋 明

 Lied リート(複数形 Lieder リーダー)はドイツ語で、ゲルマン固有の名詞で「うた」の意。ドイツ語では語尾のdは濁らないので、リードではなくリート。ドイツ語でリートというのに、ドイツ・リート(ドイツ歌曲)と呼びます。ところが、イギリス・ソングとかフランス・シャンテ(シャンソン)とかイタリア・カント(カンツォーネ)とか、呼ばないのですから不思議。ドイツ語には、リートの他に singen (歌う)これは英語のソングにあたる言葉で、これは本当に声を出して歌うことを指します。また Weise (歌、節、旋法)という言葉もあります。

リートの定義となると少しやっかいです。長い歴史の中で文化の変化とともに少しずつ変化してきたものだからです。たとえばモテットを一言で定義できないのと同じです。ですから学術的な定義については、どなたかに平易な内容の投稿をお願いします。ただ、知っておかなければならないことは、時代によっては「リートは常には歌曲ではない」ということです。「詩」もリートに含みます。ミンネジンガーの時代には歌詞(テキスト)とメロディーは不可分の状況だったと思いますが(歌詞を作る人は当然メロディーも作った;逆も真)、時代が下ってくるとメロディーを持っていなくてもリートという概念で括られる「詩」が形成されてきます。例えば Heine の Buch der Lieder うたの本 はまさに詩集です。逆にメンデルスゾーンの無言歌 Lieder ohne Worte は、まさに言葉の無いリートです(ピアノストがこれをリートとして認識していないので妙竹林な時がありますね)。そこで仮に、「リート=時にメロディーを伴った韻律詩」としておきます。口ずさんだり朗読したり歌ったりできるドイツ語でできた「うた」ともしておきましょう。学術的には芸術的リート Kunstlied と民衆リート Volkslied を分類するのですが、今日はその分類も無視させてもらいます。彼等は芸術については何でも同じような分類を好むのです、Kunst- なのか Volks- なのか、を。(ここでは無視しますが、ロマン派をやる人には、ここの研究が少し必要かと思います:投稿願います。)

少し視点を変えてみましょう。どこの国の言語でも「うた」に相当する固有の(=外来語ではない)名詞をもっています。その国の言葉で歌われ、その国で生まれた”固有の”「うた」を意味する名詞です。それが、うた、リート、ソング、カント(チャント、シャンテ)などの言葉です。日本では「U・TA」と発音されたであろう日本固有の名詞に、歌、哥、詠、咏、謳、嘔、謌、哦、吟、詞、詩、嘯、唱、賦、謡、唄といった外来の漢字を宛てて用いるようになっています。本来は万葉集に出てくる「うた」(後に、漢詩と区別するために、和歌=ジャパニーズ+歌、と呼ばれるようになった)が固有のものだろうと思います(文献を教えて下さい)。本来の「うた(和歌)」は決して目で読むものではなく、大きく長い声で「うた」っていたものでした。今でも宮中の歌初めの儀式では「うた(和歌)」が歌われています(たぶん平安朝方式と思われますが、我々にはとても歌とは思えませんネ…)。五七五七七という韻律をもった日本固有の、しかも発声を前提とした「うた」=和歌(……これが、ドイツだとリートと言うに違いありません)。

 奈良朝には中国(漢民族)の「うた」が輸入されるようになります、漢字で綴られた「うた」が。漢字によって綴られた「うた」を、日本固有のうたと区別して詩(=言+寺:寺で用いる言葉→漢字)と呼び(さらには漢詩)、うた(和歌)は「歌」をもって表したようです(歌:本来、大きな口を開けて(欠)、カーと叫ぶ(哥)ことを表わす漢字)。漢詩も実はリートであって、非常に整然とした韻律(平仄法:唐時代に大成された)があり、正に発声を前提として作られていました。その朗読は、中国語が分らない私にも、抑揚があってリズミカルな美しい音楽に聞えます。ただし、奈良時代以降、中国式発音をすべての人ができる訳ではなかったので、「書き下し文」(返り点などで)で日本語で読むようになりました。その時、発声されるべき美しい詩は単なる読みもの文学となったのです。ところが、少し後の時代になってから、また漢詩を読み下し文のまま発声する(歌う)方式が生れてきました。詩吟です:鞭声〜粛々〜夜〜河を〜渡る〜!!。何というバイタリティを日本人はもっていたのでしょう。世界に冠たる音楽民族、それは日本人です。

 平安時代に「詩歌に通じる」と言えば、漢詩も和歌も両方できる、倭漢の文学やリートが理解できるということでした。因に、管絃は笛や琴の琴(キンのコト:琴には琴と箏があった)の意味で、詩歌管絃に秀でるとは文学や音楽全般をこなせる文化人ということだったのです。詩と歌:漢字の使い分けが面白いですね。その他の「うた」に対する漢字の宛て方(唄、詞、など:祝詞についての投稿をお待ちします)も上手だと思います。日本人にとって漢字が異なると少しづつ「うた」のイメージが異なってきますね。それと同じように、ソングなのか、リートなのか、シャンテなのか、カンツォーネなのかによってもイメージが違います。なぜでしょう。実は、そのバックにはその「うた」を育んだ文化、風土、習慣が付随してまわるからです。ラテン語の Cantoカントは「うた」ですが、ローマ帝国の分裂とともにカンツォーネ(イタリア)、シャンテ(フランス)、カンシォーネ(スペイン)、チャント(ローマ教会)、とそれぞれの言語、文化や生活習慣にマッチした「うた」に変化してゆきました。同じ固有の名詞 Canto から派生しても、長い歴史と共に文化に地域差が生じたのですね。そして、それらの中から Aria アーリア(本来は空とか風を表す語で高い声部を言ったりした;英語の air と同義)、バラード、ファドなどの音楽が派生してきます。

リートに話を戻しましょう。つまり、ドイツで生れ、ドイツの旋律で書かれ、ドイツ国民が納得する美意識の中で、ドイツ語で歌われる(あるいは朗読される)「うた」なのです。だからビートルズの曲をドイツ語で歌ってもリートにはならないのです。ドイツの文化(風土、気候、言語、文学、建築、美術、思想、宗教、社会制度といったもの)を背景に背負っている訳ですから、リートを朗読したり歌ったり聴いたりする時に、少しでもそれらの背景(文化)を知っておいた方が理解が深まるということになります。外人が和歌を勉強する場合に和歌の文句だけを勉強しても駄目で、例えば日本人にとっての「花(桜)」のもつ精神的、感覚的世界をある程度理解する必要があると思います(敷島の大和心を人問わば……、梅は咲いたか桜はまだカイナ…)。それと同じで、必須ではないけれどドイツの文化を知っておいた方がベターという所でしょうか。歌う方も聴く方も区別はありません、双方ともに同じレベルでありたいものです。ここに米子リート研究会の発足の本当の理由があったのです。聴く人、歌う人、読む人、見る人一緒に一所懸命勉強しようではありませんか。ひたすら、自分の向上のために。

 勉強する題材はたくさんあります。ゲーテやハイネの作品を理解する、キリスト教に触れる、詩作のための韻律法を学ぶ、ゲルマンとラテンのアクセントの違いを知る、それを音楽上でも確認してみる、ドイツの絵画を鑑賞する(ブリューゲル一族の展覧会:東部美術館、もう行きましたか?)、旨くもないドイツ料理を食べる(ごめんなさい)、ドイツ民謡;とりあえずブラームスをやる、北部と南部の違いを知る、アルプスの南の明るさをバッハやモーツァルトに教えて貰う、グリム兄弟を読む、隣あった民族の文化にも触れて違いを見付ける、Mai 五月について日本の五月とは違うことを知る、音楽様式の変化(ルネサンス〜バロック〜クラシック〜ロマン)とリートの形式の変化を対比させる(請、投稿)、ドイツ人のバラと日本人の桜を比べてみる、ドイツに行ってみる?……。こうなったら、ホラ、音楽そのものの勉強になってゆくでしょう。(音楽美学研究会という名称でも、間違いじゃないんですね。)

 結局の所、リートとは何か?というタイトルにも拘わらず、敢えてリートの本質については触れずにきました。周辺の事柄ばかり述べてきました。それは、リートの本質的な事柄については会員の皆さまに投稿して戴きたいと思っているからですし、第一、私もリートに関しては素人なのです。今から勉強してゆきたいと思っている一人なのです。さあ、皆さん、ご一緒に勉強を始めましょう。


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