リート研究会々報・巻頭言

 これまで「米子リート研究会」の会報を4号まで発行しました。それらに付された巻頭言をここにまとめて掲載させていただきます。(編輯子) 

 

  目次


第1号 巻頭言

 ようやく米子リート研究会の会報第1号をお届けすることが出来ました。 

 偶然が重なって、このような勉強会が発足しました。演奏家も聴衆も同じレベルで音楽が楽しめたら、という夢を実現するためには、誰もが等しく勉強をし、知識を分け合い、討論をしてゆかなくてはなりません。美的な感覚の共有には、主観だけでなく客観的な土台が必要です。これまで、お仕着せの主観論ばかりが演奏会場ばかりでなく教育現場にまで氾濫してきました。音楽的な主観性は会員それぞれが独自に発展させるべきものですが、客観的な見方は皆で勉強をし、討論をすることによって育ててゆくことが出来ます。演奏家と聴衆が同じ客観的な器の中に入り、そこで行われる主観に満ち満ちた演奏を本当の意味で歓び、あるいはブーイングし、笑い、泣き、そして楽しむのです。衣装が良かったとか、声がきれいだったとか、タッチが良かったなどという音楽批評ばかりでなく、シューベルトそのものだったとか、ブラームスのようなシューマンで面白くなかったとか、イタリアバロックなのにドイツバロックで演奏したので腹が立ったとか、見せ物小屋には成功した、などという会話を演奏会の帰りにやりたいものです。声は美しいに越したことはない、ピアノの音色は美しいに越したことはない、合唱はハモるに越したことはない、衣装は素敵に越したことはない、のです。しかし、それだけで終わってしまいがちな昨今です。山陰地方では、これまで演奏技術の習得ばかりに目が向けられていました。それは歴史的に仕方のないことかもしれません。それによって外形は与えられてきたかもしれませんが、魂は入れることは出来なかったのです。演奏家も悪いのですが、もっと悪いのは聴衆です。是非もなく拍手喝采なのですから。少し嫌みが過ぎました。さあ、躊躇ってなんかいないで、気楽な気持ちで、ちょっとだけまじめに演奏家も聴衆も一緒に勉強しましょう。

 

 


第2号 巻頭言                 【目次に戻る】

 芸術の秋となりました。どうして芸術の春や夏や冬はないのか解りませんが、ともかく演奏会ラッシュが続きます。本研究会としてはプラバホール11月2日のペーター・シュライヤーがいち押しということになりましょうか。会員の白石さんと常松さんの姿をいつでもいろんな演奏会場で見かけます。どんな演奏でも耳を傾けるその姿勢にいつも感激します。私も負けずにたくさんの演奏会を楽しみたいと思います。

 今回の会報の目玉は、中山明慶書簡集と致しました。ひとつの項目(例えば韻律論)について深く掘り進むことも重要ですが、いくつかの項目の全体を見渡して自分なりの芸術観を形成するということが音楽人として最も重要なことかもしれません。中山さんの主張は常にここを原点としているように思えます。書簡集に出てくる孔子の百骸九穴の話も、音楽家だから音楽だけやっていれば良いのではなく・・という彼なりの婉曲表現だと思います。演奏を聴き、展覧会を鑑賞しながら「自分自身の中の芸術性を考える」には秋という季節は最適なのかもしれません。

 「コーヒーの味の解らん奴は音楽の味も解らんのヤ」とぶつぶつ言いながら点てるハワイコナやらキリマンを中山さんに御馳走になったものでした、もう20年も前のことです。別にコーヒーが嫌いな人に無理強いする訳ではなく、音楽観を磨く人は味覚という感性もまた磨く人である、という例えであったのです。そして味覚という言葉は、美術や建築、書道、香道、華道等々に置き換えられるのです。そして、それはまた百骸九穴の話にも繋がってゆくのでしょう。さあ、芸術の秋と洒落てみましょうか。

 


第3回 巻頭言                 【目次に戻る】 

 節分は寒波で、わが家に付近では10cm程雪が積もりました。路面は凍り、テカテカツルツルでした。みなさまの地域では如何だったでしょうか。節分すなわち立春の頃の雪はことのほか寒いけれど、どことなく春を思わせる所があって、正月の雪とはまた趣の違うものですね。ドイツ文化で、冬にMai(5月)を待ち望む、というのもこんな手合いかな、とも想像されます。いや、もっと切実なのでしょう。私の子供達はといえば、母親の言うことも聞かずに雪合戦、雪だるまに興じて、今でも青鼻を出しています。

 青(あを)という語は、明治時代の初期までは緑色をさしていたということです。だから青っ鼻はブルーではなく、あの独特な緑がかった色を指すようです。木が青々としている、といいます。青垣、青柳、なども、緑と思えば納得します。アイツはまだ青い(若い・未熟)も合点が行きます。信号は青・赤・黄色といいますが、初期の信号機は本当に緑色だったそうです。辞書を引くと(明解国語辞典/三省堂)を引くと、「ー型Г琉譴帖晴れた空の色。△澆匹蝓9い馬(の毛色)。た聞圓鮗┐洪号。ヌそ呂福」とあります。でも、今でいう青色(ブルー)は昔は何といっていたのでしょうか?

 明治初期の本に「青色の羽織を着て男がたたずむ」と有ったとすると、原作当時に忠実に再演するとしたら、今でいう緑色の羽織を選ぶことになります。忠実な再現が果たして必要かどうかという議題は置くとしても(古楽器を用いての演奏にこだわる必要があるかという議題は置くとしても)、これは音楽の問題でもあります。もしグリーンの意味で使われていた青という詩句があって、それをブルーの意味で歌を歌うとすると微妙にニュアンスが違ってくるでしょう。語感、語勢も異なるでしょう。これは歌詞だけの問題で終わらないことにも予想がつきます。ベートーベンの時代の人々に「1万人の第九」を聞かせたらその過剰な音量にびっくりして死んでしまうことでしょう。1万人でなくとも死んでしまうでしょう。モーツァルトに今のシュタインウェイを弾かせたら鳴りすぎて嫌かもしれない。バッハにピアノフォルテを弾かせたら、逆に大喜びして「この時代を待っていた」というかもしれない(それを言うならピアノではなくて、ロマンティック・オルガンと言うべきでしょうか)。スカルラッティの歌をピアノ伴奏で歌ったら、たぶん彼は自分の音楽を破壊されたと思って怒り出すかもしれない。ルネサンスやバロックの絵画についての誤った概念は、絵の洗浄と修復によって正しい方向への導かれつつあるそうですが(中山書簡参照)、音楽の世界ではどうでしょう。皆自分勝手に解釈して洗浄も修復もないかもしれません。さあ、自分自身の中の音楽における洗浄と修復に、少し時間を割いて見ませんか?

 

 


第4回 巻頭言                 【目次に戻る】

 最近はコンピュータ音楽(DTM: Desk Top Music)を手軽に楽しめるようになりました。コンピュータの他に2万円弱のソフトを手に入れるだけで、誰でも自在に作曲・編曲、演奏ができるようになっています。コンピュータ音楽に触れていると、器楽曲(sonata)と 声楽曲(cantata )について若干考える羽目になりました。

 コンピュータ音楽も基本的に instrument ですから、音楽構造だけで成立できるものです。ですから sonata は、その音楽を生んだ土壌を知らなくても「ある程度の理解」は可能です。その意味では「音楽に国境はない」のでしょう。一方、歌には歌詞が存在していて、つまりその言語に特有の文化を背負っているのが「歌」であるということになります。ドイツリートであろうがビートルズであろうが、歌詞をもっている以上、ある意味での「国境」が存在することになります。その「国境」を越えて楽しむには、言語や文化的背景をよほど性根を据えて勉強しなければなりますまい。

 考えを演繹するならば、「ある程度の理解」ではなく「深い理解」をめざすならば、実は sonata の場合にも「国境越え」のための努力が必要なのではないか、と思われます。(ヴァイオリンの人は、それが Ave Maria であろうがホルストの惑星であろうがお構いなしに、ただ単に美しい音をめざして突き進んでいくのでしょうか。たぶん、そうではないと信じたい物です。)何かしらの勉強を怠ると「深い理解」というレベルには到達できないのではないか、ということです。その「何か」とは言語や文化的背景であり、逆に「技術」ではない、と考えても良いでしょう。

 「詩」という文学形式はそれだけで十分に芸術として成り立つにも拘わらず、敢えて「音楽」をつけて「歌」にすることが人類の好みのようです。器楽声楽に拘わらず、音楽人は「詩」やその背景について理解を深めてこそ、リートやミサを我が物として演奏し、また聴くことが出来ると言うことなのでしょう。この間の、NHKのディスカウのリート講座を見ていると、ピアニストも詩の深い理解を要求されているのが、当たり前のことなのですが、印象的でした。日本の音楽大学では今でも、キリスト教を知らない教官が Ave Maria を指導し、ブリューゲル父子の絵画を見たこともない教官がルネサンス音楽を語ったりしているのでしょうか、少し心配です。

 久しぶりの会報ですが今回はキリスト教の特集といたしました。「何かしら」の一つにキリスト教が入ると思われるからです。勿論、完璧ではありませんが、sonata 専門さんもcantata 専門さんも、勉強の最初のステップになれば、と願っています。

 

 
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