投稿:仏像彫刻に思う
−唯心的領域− 久方 東雲
画家の岸田劉生の言葉に「唯心的領域」というのがある。日本の名随筆「画」の「美術上の婦人」の文中で「私の常に云う美術に於ける唯心的領域」の一つとしての「眼」についてふれており、仏像には開眼という言葉があるが、画家に於いても眼でその画の活殺が極まる、と言っている。私はこれまで仏師、仏像彫刻家、仏像芸術家という言葉を分けて使っているが、この仏師と仏像芸術家の違いとして唯心的領域の彫り方の違いを意識しているのである。確かに最近の仏師として著名な彫刻家も多い。そして彼等の彫った仏像も素晴らしいものも多い。しかし概して彼等の多くは裳の襞の作りや天衣の流れ、あるいは光背などに見られるように高度な仏像彫刻技術あるいは技巧を持ち合わせてはいるが、唯心的領域の作り方には納得のいかないものが多い。勿論、飛鳥、天平の古代から仏師と呼ばれる彫刻家によって作られたといわれる国宝あるいは国宝級の仏像の多くにあっては論外であることは言うまでもない。唯心的領域。仏像にあっては、指先や脚の動きなどもあるが、大きくは眼と口もとであろう。いわば人間の心を表現し得るところの眼と口である。この唯心的領域をもって人間の、あるいは仏の心を表現し得て初めて私の言う仏像芸術家と称されることができようのである。その仏像芸術家という意味において私などは半人前以下の、否、仏像芸術家などとはおこがましい存在であり、私の彫った仏像と称するものは、今の私の芸術表現能力では納得のいくところとしても、まだまだ半死に状態に近いのかもしれないと思えるのである。まだ先は長いかもしれないが、私は単に仏像を彫りたいというだけではなく、このような芸術的に価値の高い仏像を彫りたいのである。そして観る人をほっとさせるような、万人をほっとさせ心を豊かにさせられるような仏像を彫っていきたいのである。そうすることが出来るならば、かつてフィッシャー・ディースカウの歌うシューベルトの「冬の旅」を初めて聴いた時の感動を私自身で多くの人に与えることが出来ようのではないかと思うのである。 |
奥脇作品集の目次に戻る
リート研究会に戻る / トップページに戻る