投稿:ミッシャ・マイスキー ─ チェロで歌曲を奏でる ─

                                    久方 東雲


 先頃、新星堂というCDショップで棚に並べてあるCDを眺めていたところ、ミッシャ・マイスキーという演奏家のCDが数枚並べてあるのが目にとまった。よく見るとその中の1枚に“マイスキーのシューベルト小品集云々”と書かれたCDがあったので手元にとって中味を調べてみた。ミッシャ・マイスキーというのはチェロ奏者らしい。今までに聞いたことの無い名前であるが、ここのCDのラックを見ているとどうも最近はかなり有名らしい。今、名実ともに世界の頂点を極めたチェリストとあった。手にとったCDは“セレナーデ/マイスキー”。シューベルトの曲ばかりを演奏したものであるが、最初の“アルペジオーネ・ソナタ”以外は全て歌曲であり、その中でも私の良く知っている、三大歌曲集“冬の旅”の中から“幻”“辻音楽師”、“美しき水車小屋の娘”の中から“知りたがり屋”“水車職人と小川”、それに“白鳥の歌”の中から“海辺にて”と“セレナーデ”の曲名が見られる。さらにこれらに加えて、“ミニョンの歌”“楽に寄す”“ます”“野ばら”などの有名な曲が揃い、そして最後は“君こそわが憩”で締めくくったアルバムである。かつて私がディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの歌で、この世にこの様な素晴しい音楽があるのか、とこの上なく感激した曲ばかりである。それをチェロで“歌う”というのは果たしてどんなものになっているのだろう。そんなことを考えながら他のCDにも目をやった。 そこにはサン=サーンスの“白鳥”、ショパンとチャイコフスキーの“ノクターン”、シューベルトの“アヴェ・マリア”など、何人かの作曲家のチェロの名曲や日本の“浜辺の歌”と“五木の子守歌”の入った“エレジー/マイスキー”があった。これらの2枚のCDを買って、その好奇心に胸踊らせながら電車に乗って帰った。

 家に帰って早速CDプレーヤーにCDを入れて“PLAY”のスイッチボタンを押した。 先ずは本命の“セレナーデ/マイスキー”。静かなピアノの前奏に続いてチェロのやや憂いを含んだ“アルペジオーネ・ソナタ”の美しい主題がやさしく響いてゆく。明るくリズミカルな曲想に展開していくが、あくまでも悲哀にみちた美しいチェロの響きである。そう、昔、フィシャー=ディースカウの“冬の旅”がラジオから聞こえてきた時のような感動を覚えさせる。このCDをこれまでに何度聴いたことであろうか。今も聴きながらこうして書き留めているが、この音楽の崇高さに幸せを感じずにはいられない。もともとアルペジオーネはギターレ・ヴィオロンチェロともよばれ、シューベルトがこの楽器のために渾身の努力を惜しまなかった曲の様に思えてならない。いくら聴いても飽きることのない曲である。

 アルペジオーネのあと“美しき水車小屋の娘”の“知りたがり屋”の曲にうつる。彼女は私を愛しているのか、と知りたがる、粉挽き職人の若者が小川に尋ねる切ない心の歌である。そして、数奇な運命をもつ薄幸の少女ミニョンの“ただ憧れを知る者だけが”につながっていく。あのゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」の中で、イタリア貴族の娘として生まれながらも、幼い時に誘拐されて旅回りの一座の踊子をしている、憧れの化身といわれる可憐な少女の“ただ憧れを知る者だけが私の悩みを知っている。私を愛し、私を知る人ははるか遠いところにいる……”というゲーテの文を思い出す。何かこの3曲を聴いただけで“冬の旅”にいたる思いがしてくるのである。

 “幻”“辻音楽師”。フィシャー・ディースカウは勿論、プライ、ホッター、ヒュッシュ等々の歌う“冬の旅”はもう何回聴いたことだろう。中でもフィッシャー・ディースカウの歌は惹きつけて離さない。しかしここで聴く“冬の旅”はこれまでにはない、新しい“冬の旅”を私に与えてくれた。歌曲としてと同じように、楽曲として、弦楽曲としての素晴しさを示してくれたものだ。曲が表現に富んでおり、それ自身が生命をもっているかの如きであり、言葉がなくてもこのように素晴しい“冬の旅”でもあり得るのである。いや、言葉を超えた歌曲とでも言ったら良いのだろう。

 そして“夜と夢”“海辺にて”“楽に寄す”“ます”とつづいて“セレナーデ”にいたる。言うまでもない名曲である。“楽に寄す”は歌曲で言えばバリトンであろうか。フィッシャー=ディースカウの歌に比べればかなり低めに、静かに、そしてゆっくりと演奏されている。“ます”は弦楽四重奏曲としても知られており、それに近い感じであり、“セレナーデ”は正にテナーの音域をバリトンで歌うかの如きであり、非常に柔らかい感じの演奏だ。

 “一人ずまい”“水車職人と小川”を経て“野ばら”となる。コウロギの鳴く炉辺に満ち足りた気持ちで座って、静かな田園生活を送る男の様子が瞼に浮かび、また失意の若者の心が聴く者に伝わってくる。そしてゲーテとフリデリケ・ブリオンとの儚ない恋を微妙な音の変化で複雑に表現したシューベルトの真髄が伝わってくるようである。

 “万霊節の日に”に続いて、最後の曲、“君こそわが憩”の心休まる音楽で閉じる。心憎いばかりの選曲である。しかし、この曲を聴くことによって、これまでの高ぶっていた心がスーッと休まるのを覚える。そして又、心の中で初めの曲から振り返る余裕を持たせてくれる。その余韻が楽しみでもあり、その気持ちをそのままソーッとしていたいと思うようになるのである。実に素晴しい音楽である。

 歌曲“冬の旅”―声楽曲を弦楽曲に変えた男ミッシャ・マイスキー。敢えて仏像彫刻に喩えれば広隆寺の弥勒菩薩の美しさや慈悲深さをレリーフをもって表現するが如きかもしれない。

 

 


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