投稿:仏像彫刻とレリーフ    久方 東雲


 仏像を彫っていくに従ってその世界が次第に広がっていくのが感じられる。初めて白衣観音のレリーフを彫った。そして地蔵。その次は聖観音の仏頭。今年に入って退院後、聖観音立像を彫っwている。こうして仏像を彫っていると、仏像はもとより美術一般に対しても見方が変わってくる。

 私には桜井孝美という画家の義弟がいる。家族の入浴の画で安井賞を受けた立派な画家に成長した。その入浴シリーズでは構図もさることながら、水繁吹の描き方が素晴しいと感じた。その後、富士を描くようになったが、太陽の描き方、光の描き方に感動を覚える。そんな画を見て、こんな太陽や光、あるいは水繁吹を彫刻、特にレリーフで表わすにはどうすればいいのだろうかというようなことを考える。仏像の光背はもともと光である。そんな光背も然りである。

 そんなことを考えているとますます彫刻の世界が広がってくるのである。今年の夏、諏訪湖の花火を見て感激したものであるが、このような花火をモチーフにレリーフを彫ったら、どんなものになるのだろう。では香を放つような花はどうだろう。レリーフから今にも飛び出してきそうな鳥はどうだろう。香の様な分子レベルでしか存在しない物質、飛び出すという動作、このようなものを彫り出すことが出来るのだろうか。

 絵画は色彩の世界、有彩色の世界である。これに反して彫刻やレリーフは単彩色の世界、モノクロムの世界である。また、現実も有彩色の世界である。すなわち有彩色の世界を単彩色で描くのである。一つのヒントは土門挙のモノクロムの写真である。彼はカラーではなく、飽くまでもモノクロムにこだわり、仏像の光と陰を演出しているのである。相当難しいこととは思うが一つの研究課題といえるかもしれない。最近気がついたことであるが、桜の板を見た時、木目の光り方が見る向き、光の当たり方によって異なるのである。このような現象や、あるいは木目をうまく使って光などを表現出来ないだろうかと考えている。

 最近、ミッシャ・マイスキーというチェリストが奏でるシューベルトの歌曲を聴いて、かつて大学時代にディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの歌う“冬の旅”を聴いた時と同じくらいの感動を覚えた。これは声楽曲を弦楽曲に変えることにより聴く人に新たな感動を与えたのである。勿論、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの“冬の旅”は今でも至高の音楽と思っているが、私はこのミッシャ・マイスキーの音楽を聴いてこう考えた。“或ものを在るがままではなく、手を加えて別の良さを引き出した”のだと。そしてこうも考えた。“仏像彫刻に当てはめるならば、広隆寺の弥勒菩薩などの国宝級の仏像をレリーフに彫る、そして川合玉堂の楊柳観音のような掛軸をレリーフに彫ることに相当するのではないだろうか。こうすることにより新たな感動も生まれるかもしれない”と。

 

 

 


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