「ふつう」と「みんな」        満嶋 明


 

私はいろいろな所で講演をさせて貰っていますが、しばしば「普通はこうだよね〜!」とか、「だって、みんながやっているから」などと使われる「普通」そして「みんな」という語句は慎重に使ってくださいとお奨めしてきました。みなさんはどんな時に「普通はこうだよね」とか「それは普通じゃないよ」「みんなそう言っているわよ」などと使いますか?


 

日本人気質を表しているという意味では、これらの語句は「文化」を背負い込んだ語句だと思われるのですが、相手を殺すとまではならないにしても、相手を無視した、あるいは相手を傷つけることにつながる危険性をはらんだ使い方なのではないかと、そういう風に心配してのお奨めなのです。相手を傷つけるまでは行かないにしても、「根拠なしに」自分の環境を相手に押しつけることになるということを認識していただきたいのです。

実は、「普通」とか「みんな」という語句は、限られた仲間の間だけでの使用ならば問題ないのです。例えば、「お雑煮はお餅を入れた甘いぜんざい」という風習の地域の人どうしならば、「普通のお雑煮」といえばぜんざいを指します。これで良いでしょう。ところが、他の地域の人が混ざった新年会で出されたおすましを見て、「普通じゃないわよ」と言っても仕方のないことです。でも、この「普通」の使い方が、実は、多く使われているのです。ある一定の基準を共有した集団(仲間うち)の中だけで使える言葉を、異なった基準を持っているかも知れない人(よそ者)に対して使うことは避けなければなりません。

もう15年くらい前に、あるアマチュア音楽団体の演奏会の企画を請けたことがありました。それまでに様々な演奏会企画を十数カ所のコンサートホールで行ってきた経験を買ってくれたのでしょう。ところが、企画のプレゼンをしているときに、団体の中の1人が「普通はそうじゃないわっ」と突然発言されたことを覚えています。その方にとっては、「自分たちの仲間だけで通用する基準」がその人にとっての「普通」だったようですが、その「普通」という基準が当てはまらない世界があるということに気が付いておられなかったのです。「普通」ではなくて、「私たちのグループでは違った方法を採用してきたのですが・・」と所属しているグループを限定して発言する方が賢明ですと、その方には申し上げておきました。

普通はこうだよね〜、それは普通じゃないわ、などと価値基準を親しい友人と確かめ合うのは日常会話としては宜しいのですが、地域の寄り合いとか、ボランティアの会議とか、いえ、会社などでの会議でも、「普通」と言う言葉は慎重に使うべきでしょう。どうしても使いたいのであれば、「私の狭い了見では、それは普通ではないと思います」とでも言ったら良いでしょう。

もうお気づきだと思いますが、「普通は」という表現は「私、もしくは私の周辺のごく限られた友人と共有している価値観では」という意味を含んでいますね。たとえ、関東一円で流行しているような事柄でも、それが関西圏では通用しないこともあります。日本で通用しても、外国に行くと通用しないこともたくさんあります。

実際の悪い例を上げてみましょう。私は何度か国際協力関連のバイトで、開発途上国に技術指導に行った経験があるのですが、日本から派遣されてきた他のメンバーの中に「これはどうかな?」っていう人をたくさん見かけました。技術を教える相手を「こんなことも分からないなんて普通じゃ考えられないよ」などと評価しているのです。なかには「こいつらはバカだから・・」などという人もいる始末で情けないの一言でした。技術移転に行っているわけですから、つまりは対象国の基準を日本の基準にまで高めようと言うプロジェクトなのですから、始めから「日本の基準」が当てはまらないことが分かっている訳です。それなのにあくまでも「日本」という限られた仲間うちの「基準」を、仲間の「外部」である外国人に当てはめようとしている!いえ、「日本」という基準というより、その人が日本で所属している団体の「限定された仲間内での基準」を外国人に当てはめようとしている、といった方が正しいでしょう。しかも、どちらの基準が「より正しいか」という検討もしないうちに、自分たちの「基準」が正しいことにしているようです。本当に困ったことです。

今度は「みんな」という語句について考えてみましょう。私の子供も「みんなが持っているから、私も新しいゲーム機が欲しい」などと言うことがあります。みんなと言うからには、友だちのほとんどが持っているの?と訊ねると、どうも違うらしい。マア君とサヤちゃんとミユキちゃんと・・・、と思ったより数が少ない!「みんなが持っているから」という理由では買ってあげられないよ。みんなが持っていようが誰も持っていなかろうが、君が欲しいというのであれば考えてみるけれどねって答えておきます。

子供に限らず、「みんなもそう言っているから」という発言を聞いたとき、では具体的に言っている人の大方の人数と具体的なお名前をお聞かせ下さいと尋ね返すと、だいたいに困る人が多いようです。みんなという位だから少なくとも100人くらいと答えてくれるかと思うと、2〜3人だったりするからです。ひどいケースでは「その人の家庭では」というのがありました。「では、その方々の意見は後ほど直接確かめることにして・・・」などと私が言うと、もっと困ったことになる。実際に「発言」していない人を引き合いに出しているケースがあるからでしょう。自分の意見を、さも「他の人も賛同している」かのような言い方をしている訳で、ハッキリ言って「ごまかしている場合」が多いように感じています。私は、別に意地悪をしているのではなく、用件によっては正確を期すために聞いているのですが。自分の意見が正しいと思うのであれば、「みんな」が言っていようといまいと、私の意見なのですが、と言ってくれたらいいのにって思います。

自分の意見を「仮想的に正当化」するような「みんな」という語句には、実は、現代の悲しい日本人の姿が浮き彫りになっています。「みんなが言っている」「みんながしている」それらの内容について、良いことなのか悪いことなのかの判断を棚上げしているのですね。「みんな」がしているから「私」がすることは正当である、というような判断からの逃避とでも言えるかも知れません。または、「みんな」がやっている行為を「君」がしないのであれば「君」は「よそ者」だ!との差別意識の温床なのかも知れません。

私のようにズケズケと質問できる人間ならば、「みんなって誰のことですか?」とか「普通って、どこの世界での普通ですか?」と聞けるのですが、そうでない人にとっては「みんながそう言っている」と言われれば、「みんながそう考えているのなら、私もそれにしたがった方がいいかな」と言うことになってしまいます。でも、「みんな」って、ほとんどが「曖昧」な集団なのです。言われたら、出来るだけ聞き返すように努力されることをお奨めします;「みんなって誰のことですか?」と。また、みんなが・・と発言する場合には、予め「みんなとは具体的に誰を指すのか」についてメモしておくことをお奨めしましょう。

うちに交換留学生を受け入れたときがあります。私は「わが家流」を説明し、彼には「彼流」を納得するまで説明してもらい、それから共同生活を始めました。少なくともお互いに「自分にとっての普通」を押しつけることはなかったので、楽しい思い出となっています。でも、この交換留学をお世話している団体の方々の中には、「私にとっての普通」とか「日本人にとっての普通」を外国の、しかも若い人々に押しつける人がたくさんおられたのには参りました。それなのに「私たちは国際交流のプロです」ってな顔をしているので閉口しました。交換留学生の多くの心の問題は、このあたりに根があるように感じています。

「普通」とか「みんな」とかという語句が使われ方次第で、自分の価値観の押しつけになる場合があることを覚えていただいて、平和な会話が進むことを祈っています。

1999.1.28


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