合唱指揮者を目指す君へ      満嶋 明                    


 これから合唱団の指揮者になりたいと考えている人、あるいは指揮者になったばかりの人のために、基本的な心構えや事柄(技術や知識も含めて)を、少しばかりここに綴っておこうと思い立ちました。あるいは、既に何年か合唱指揮を経験された方にも有効かもしれません。指揮者になるために、指揮者として成長するために、基本的に勉強すべき項目を示しながら、みなさんの奮起を期待したいと思っています。

(この小冊子はもともと大学合唱団の学生指揮者の養成と奮起を促がすために書かれたものを、一般の方にも読めるように1992年に少々改変したものです。ですから、少しばかり辛い表現や批評めいた表現もあるかもしれませんが、気にせずに読み流して下さい。)


目次   

   1.指揮者にもっとも必要なものは何でしょう?

   2.はじめに自分自身を確認しよう! 

   3.音楽芸術のなりたち

      (1) 聴く段階・(2) 知る段階・(3) 比べる段階・(4) 行なう段階

   4.楽譜の読み方について

   5.良くないと思われる実例

      (a)選曲にあたって・(b)曲づくりにあたって

      (c)傲慢ということ・(d)指揮法の教則本について

   6.その他のことなど

      (a)ピアノについて・(b)指導者について・(c)発声法について

   −とりあえずの終りに−


1.指揮者にもっとも必要なものは何でしょう?  【目次に戻る】

 指揮者にとってもっとも必要なものは何でしょうか? 指揮法(指揮のテクニック)ですか、発声法ですか、音楽学ですか、和声法ですか、対位法ですか、キーボードですか、指揮をやりたいという”やる気”ですか、曲名あての知識ですか、スコアリーディングですか? 語学ですか? 文学の理解力ですか? あなたが歌が旨いことですか? 合唱経験が長いことですか? みんな違いますね。勿論、そのような知識や技術や経験は必要でしょう。有るに越したことはない。でも、それだけで指揮ができますか? 出来っこありません。できることと言えば、それは指揮の真似ごとにすぎないのです。じゃあ、何が最も必要なんでしょう。

 それは“心から溢れてくる音楽”です。“歌いたい”という気持ち(意志)ではありませんよ。歌いたいとか歌いたくない、とかいうのではなく、自然に心から溢れてきてしまう“音楽”がもっとも必要なのです。心からの歌、心からの音楽、これがなければ指揮にならないのですね。それどころか楽譜を理解することすら出来ないのです。もし、あなたの心の中に音楽という芸術がない(少ない)のであれば急いで育てなければなりません。この小冊子の目的の一つは、自分自身の中の音楽を育てる方法をみなさんに実践してもらうことなのです。先に掲げた知識や技術は、心から溢れる音楽、芸術そのものがあって始めて有効となるのです。音楽というしっかりとした「核」があってはじめて、それを表現するための知識や技術が役にたってくるということです。ですから、核がなくて周囲の知識や技術だけでは指揮の真似ごとになってしまうのです。勿論、知識や技術は必要となりますから、自分の中の「音楽」を成長させていくことと平行して、地道に勉強を続けてゆく必要もあるでしょう。ここでは周辺的な知識や技術はさておいて、まず核となる「音楽」に焦点を当ててゆきましょう。

 

2.はじめに自分自身を確認しよう!  【目次に戻る】

 それでは、どうやったら心から溢れる音楽というものが自分の中に芽生てくるのでしょうか? 本当に自分にそんなことができるのでしょうか? 指揮者になった以上、できるのでしょうかなどと甘ったれた考えは止めにして、すぐにでも勉強を始めなくてはなりません。勉強をして、自分を高めることによって、少なくとも定期演奏会の時には指揮者らしいことができるようにするべきなのです。そう、きっと、できるのです!(そのために、これを私は書きはじめたのですから。)

 まず、自分の中の音楽という芸術がどのように形成されているか自覚あるいは確認する作業をしなくてはなりません。自分にとって何が足りていて、何が不足しているかを知らなければなりません。それを理解するには、少々難しく感じるかもしれませんが、自分自身の中での音楽芸術のなりたちを考えてみましょう。少し回り道かもしれませんが一緒に考えてみてください。

 

3.音楽芸術のなりたち    【目次に戻る】

 個人の中では、音楽そのものあるいは音楽観というものは段階を経て培われてくるようです。ここでは私案として仮に、1)聴く段階、2)知る段階、3)比べる段階(判る段階)、4)行なう段階、というふうに設定してみることにします。これらの段階を経るうちに、個人の中に音楽が成り立ってくる、と考えてみようという訳です。

(1) 聴く段階: 聴くための耳を育てるという意味でもあり、多くの音楽にふれるという意味でもあります。良い音とそうでない音、微妙な音程、微妙な音色、楽器による音色の違い、美しいピアノの音色と美しくないピアノの音色、歌っている曲目に適した音色とそうでない音色、適切な音量、平均律での長和音と純正率での長和音の違い、等は聴くという姿勢から次第に理解できるようになるものですね。それは音楽の基本的な楽しみでもあり、基本的な技術にもなりましょう。(ここで、これまでに過ごしてきた環境によって、差が生まれているでしょう。もし、ほとんど聴いていない、あるいは偏ったもの(たとえば合唱だけとかクラシックだけとか)しか聴いていないとすれば、指揮をするのは無理かもしれません。子供のころから音ということに関して感じることを少ししか経験してこなかったことになるのですから、あるいは偏ったものしか理解できないことになるのですから。

 また、単に聴くということもあれば、聴き比べることも必要となってくるでしょう。平均律のみの耳だけでは音楽全体を語ろうとしても無理が生じてくるでしょう。耳を育て、さらに多くの音楽にふれるということが本当に大切であると痛感されますね。また、たくさんの音程や旋律を同時に聴くという楽しみも大きな喜びです。指揮者にとっても必要な耳ですね。第一バイオリンの華やかな音ばかりでなく、第二バイオリンやビオラの音も同時に聞えていて欲しいものです。

 多くの音楽にふれるという観点から見れば、日本語の合唱以外の音楽を聴くことは重要ですね。外国語の合唱(おびただしい数です)、ピアノ音楽、オペラ、オーケストラ、弦楽器、管楽器、声楽、ジャズ、ポップス、フォーク(少し古いかな?)、ロック、民謡、その他の民族音楽。あなたはどれが好きで、どれをよく楽しんでいますか? 合唱音楽という非常に狭いジャンルだけでは、とても音楽は語れないのですから、たくさんの音を聞き、いろいろな音楽に触れることが大切であることは理解いただけますね?

 さて、あなたは一体どれだけの数の曲をこれまでに聴いてきましたか? どの時代の音楽を、どの国の音楽を、どんな種類の音楽を聴いてきましたか? 試験ではないのですから、聴いてきた曲をすべて覚えている必要はありません。でもBGMでは駄目ですよ、真剣に聴いていなければ。真剣にどれだけの曲を聴いてきましたか? できれば生演奏が良いですね。さて、もし、聴いてきた曲が僅かであるとすれば困ったことです。たくさん聴いてこそ、自然に心の中に音楽という畑に栄養がそそがれ、音楽という世界が広がってくるというものです。もし、少ないなと自分で思えたら、今からでも遅くない。たくさんの数を真剣に聴きはじめて下さい。今は取敢えず、合唱指揮者をめざすというのであれば、手当り次第にクラシックというジャンルの音楽を聴きはじめて下さい。ただし、決して合唱というジャンルにとらわれないで!

(2) 知る段階:いろいろな音楽を聴いてゆく中で、次第に音楽的な知識が増してくると同時に知的欲求も増してくるのが自然でしょう。ピアノとチャンバロはどう違う? どうして違う? 何故、J.B.バッハの鍵盤曲にはクレッシェンドがついてないか?どうして現在ではバッハをピアノで演奏するのか? バッハをピアノで弾くときにはどうすればいいのか? バロック時代のトリオは3人でなくどうして四人で演奏するのか? フルートやサキソフォンは木管楽器と言われるがなぜ金属でできているのか? ポリフォニーって簡単に言えば何? ルネサンス音楽とバロック音楽と古典派とロマン派と近代音楽と現代音楽とは何がどう違うのか? ソナタとソナタ形式は違うのか? ソナタ形式という堅苦しいものは本当に心から楽しめるものなのか? ウィンナワルツとはどんなワルツだ? メヌエットとはどんなおどりだ? アダージョとレントと何が違う? ベルカント以外の発声は悪いか? ベルカントが完成する前はどんな発声だったのか? 日本語の母音は5ツではなくもっと多いというのは何故か? クラリネットのB管とE管って何が違うのか? これらの質問について明快に答えられたら、どんなにか素敵でしょう。その時、あなたは随分と物知りになっているでしょうし、きっと音楽が随分とわかり、そして楽しんでおられることでしょう。そして、頭で学問的にだけの理解でなく、本質的に音楽的に心で理解ができるようになっているでしょう。

 これらの知的欲求を満たしてくれるものは、どうしても書物ということになります。辞典や評論、解説書などを十分に活用して音楽的な知識を充足していって下さい。音楽史、和声法や対位法、など形式的なものだと思われているものも大変に重要な知識であることが次第に判かってくる筈です。では、自分自身の勉強の方法としてどんなことをすれば良いでしょうか。和声法や対位法を本格的に勉強するとなると大変時間のかかることです。もっと楽な方法にしましょう。それには音楽辞典を使うことをお勧めします(音友の標準音楽辞典、等)。初めから、でも良いですし、好きな頁からでも良いですから、一項目づつ読破します。その中で良く知っていることは確認をしながら読み飛ばし、知らない事、知らなかった事がでてくれば、その点について勉強を始めます(中には興味のわかない項目もあるでしょうが、いづれ役に立ちますから我慢して)。友人に詳しい人がいれば聞いてみたり、あるいは別の書物を引っぱりだすことも必要でしょう。

 ひとつ心配があります。知識だけの人になってしまうことです。例えば、イントロ曲名あてクイズだけには自信がある、といった具合の、意味のない知識。モーツァルトの曲ならなんでも知っているゾ、というどうでもよい知識。こんなのをふりまわして、僕はよく音楽を知っています、という傾向の人が多くいるのです。指揮者になろうという君にはそんな意味のない努力だけは止めておいて欲しいのです。それよりはむしろ、モーツァルトらしさ、とかベートーヴェンらしさを知っている方が良いというものです。

 さて、もうひとつ緊急な課題が、この知る段階にあります。しかも書物だけでは理解できないものです。それは音楽の歴史について、です。単に年表を覚えるというのではありません。自分自身の中に音楽歴史観というようなものを形成することが指揮者にとって非常に重要なことなのです。時代によって音楽のしくみ(様式)が異なっていますし、さらに同じ時代であっても場所(国)によって異なることもあります。ルネサンス以前ルネサンスバロック古典派やロマン派近代音楽現代音楽、といった音楽観が君の頭と心の双方の中に確実に捕えられていますか? それらの言葉は知っていても実際にどんな音楽であるかを理解するのはなかなか大変なことです。でも、知らないで通りぬける訳にはいかないのです。たとえば、様式を間違えて(あるいは、知らないで)指揮をするということは大変恐ろしいことです。今でも時々ルネサンスのポリフォニーを4拍子で振って顰蹙を買っている人も見かけますねっ! また作曲家によっては一時代前の音楽様式をわざと取り入れて作曲をしたりもしますから、理解できる能力が必要になるでしょう。ブラームスはロマン派、ハイドンは古典派、とかの語句だけではなく、ロマン派とは一体どんなものなのか、他とはどう違うのかを頭と心と体で理解する必要があるというわけです。どうでもよい知識ではなく、本当の知識として、音楽の歴史を知っておく必要があるのです。

 この、音楽の歴史と様式についての良い書物はなかなか見つかりません。でも気軽に読めて、手取りばやくバロック以前の音楽の入門には皆川達夫氏(音楽歴史学者)の「中世・ルネサンスの音楽」と「バロック音楽」(どちらも講談社現代新書)をおすすめします(やたらに作曲家名がでてくれけれども、そんなのは読み飛ばして結構です)。また「合唱音楽の歴史」(皆川達夫、全音楽譜出版社)は、合唱関係の音楽史を古代から現代まで網羅してあります。(別に、皆川氏が好きなのではありませんが、音楽学学者の彼の著作がもっとも勉強の初歩には良いと思われるのです。)これらの本は、特に西洋音楽の歴史を知る上で役にたつでしょう。そして合唱というものの表舞台は、実はルネサンスやバロック時代にこそ、あったことに気がつくでしょう。でも、音楽の歴史について頭で理解をするのが目的ではないので、書籍は参考にしかなりません。頭だけでなく心と体で理解してゆくためには、もっぱらレコードがよい先生となってくれることでしょう。書籍にでてきた曲名や作曲家で、知らないものがでてくれば捜して聴いてゆけばよいのです。なるべく同じ時代の(同じ国の)ものを固めてきくようにして、その時代の音楽の特徴を頭と心と耳と実体験をして下さい。古い時代の音楽はなるべく古い楽器を用いた演奏のものが適切だと思われます。(そしてこれは、第1段階の聴く、を同時に進行させてくれますね。)

 聴こうとする曲の楽譜が手に入ればもっと良いですね。楽譜上から音楽を理解することができますから(そしてそれは指揮者にとっての能力開発にも役にたちます)。時代によって楽譜を書く時のルールが異なりますから、それを勉強することもできます。この時、ラテン語(つまりは、イタリア、フランス、スペイン語)、ドイツ語、英語なども少し判かっていた方が良いかもしれません。せめてミサの通常文くらいは読みと意味をしっておいて欲しいですね。

 もうひとつ心配があります。知る段階には限りがなく、一生続けてゆかなくてはならないのですが、ある程度の音楽的な知識が蓄えられた段階で、随分と音楽が分ったような気分になってしまうことです。次の比べる段階や行う段階をすっとばして、本物になったような気分になってしまうことです。そして、それが傲慢になったりするのです。少し分りかけても、傲慢にならず、謙虚に勉強を進めてゆきましょう。

(3) 比べる段階: いろいろなものを体験し(聴き)、いろいろな事を知識したあとで、次に比べる(あるいはまとめる)段階に入ります。バロックと古典派を比べる、ビオラとヴィオラダガンバを比べる、チェンバロとピアノを比べる、ホモフォニーとヘテロフォニーを比べる、サリエリとモーツァルトを比べる、ルネサンス音楽とルネサンス美術を比べる、ベートーヴェンとブラームスを比べる、ベームとカラヤンとを比べる、同じ時代のイタリアとイギリスの音楽を比べる、一尺八寸の尺八と一尺九寸の尺八を比べる、自分のステレオ装置と他人のステレオ装置を比べる、シューベルトが食べていたものとブルックナーの食べていたものを比べる、キリマンジャロとハワイコナを比べる、ゲーテとシラーを比べる、デカルトとカントを比べる、など例をあげれば限りがありませんね。このような比較(つまり疑問や問かけ)を自分で設定して、自分で答えるうちに、自身の中に自分なりの理解の仕方や好み(このあたりから好みが重要になってきます)が自然に形成されていきます。

 ただお仕着せに、これはいいもの、これはだめなもの、と初めから決めたり決められたりすると(つまりマニュアル人間になってしまうと)、自分自信で判断しなくてもいいものだと思うようになり、つまりは本当に創造的な活動ができなくなるかもしれません。人が中村紘子のピアノはたいしたことはない(僕もそう思うけれど)、というと自分で聞きもせずに、あれはたいしたことはない、と言ったり、岩城宏之は全然つまらない(僕もそう思うけれど)といっても、自分では判断せず、良いに違いないと信じきっている人が大勢いたりします。マニュアル通りの行動しかしない人たちに多い。自分自信の正確な判断を迂回している様にみえます。ベームは凄かった、と言ってもそんな昔の人の演奏なんか、といって聴きもしない人がいるのにも、困ってしまいます。指揮者を目指そうとする人にとって、そういう人たちは不向きですね。

 実は、第一段階や第二段階は、あまり考えなくても良かったのですが、比べる段階になると「判断」が必要になってきます。そしてその判断にはある程度の根拠が必要になるでしょう。客観的な事実とそして個人の好み(主観)という二種類の根拠が。音楽を行なうという第四段階に必要なこの「判断」の訓練がこの比べる段階で培われていきます。これまで、聴く、知る、の段階で身についたものがいよいよ発揮されることとなるわけです。

 初心者の指揮者が主観(このみ)だけで指揮をすると、ひどい目にあうのですが、比べる段階にはいっている指揮者には、逆に主観がどうしても必要になります。そして、その主観はしっかりと客観という土台の上に載っている必要があるのです。つまり、客観の上に立った主観(つまりは二種類の根拠をもっている)としての音楽です。とぼしい体験、乏しい知識、つまり乏しい客観性では間違った判断をするかもしれません。反対に、客観だけで、主観の無い音楽は面白くありません。そのバランスを「判断」しながら、悩みながら、演奏を行なうことになるのですから、この「比べる段階」で十分に判断の訓練を行なってください。

 ヴェテランの指揮者でも、自分の好みだけで指揮をする人が日本には結構沢山おられて、結局、それは客観性を自分の中に育てることができないまま指揮をしている証拠なのですが、合唱人の音楽の向上を妨げているのです、困ったものです。xxx合唱連盟の中にもそのような方が大勢おられて(特に地方で)残念ですが。

 たとえば、指揮者は、他のテンポではなくこのテンポではなくては駄目だ、というような決断を演奏中にせまられる事があります。大体こんなテンポ、という曖昧な場合もありますが、いづれにしてもテンポの決断をせまられます。その時に、正しい知識と培った主観の下で正しい判断をして、納得のいく決断をするのです。レコードの真似をするのでもなく、批評家の意見にしたがうのでもなく、楽譜との対話の中で生まれた決断ですね。その決断のためには、比べる、あるいはまとめるという作業をたくさん経験しなくてはなりません。これまでの段階で聴き、そして知った事を次から次へ比べ、そしてまとめていって下さい。もし、聴く、知る、という段階が不十分であれば、この比べる段階は実行不可能です。前の段階に時々舞戻っては勉強を重ねて下さい。

 どうやって比べる段階をこなしてゆけば良いでしょうか? 残念ながら良い方法論はありません。ただひたすらに、興味を持ったこととそれに関連したことを比べて、君自身が答(判断)を作ってゆく。半分は客観的事実からの判断、残りの半分は君の主観からの判断、それらを総合して君全体の判断としてためていきます。ボヤッとしていてはどんどん時間が過ぎていきますよ。少なくとも10年はかかるかもしれません。頑張って、自分で問題を設定して、どんどん比べて、まとめていって下さい。少し分りかけた時、君の心のなかから少しづつ音楽が、君自身の音楽が、他人の真似ごとではない音楽が、自己満足だけではない独り善がりではない音楽が、しみだしていることに気がつくことでしょう。

(4) 行なう段階: いよいよ行なう段階です。音楽を行なうとは、1.演奏を聴く2.演奏をする、に集約されるでしょう。これまで自分の中に造りあげた音楽観で他人の演奏を聴き、また楽しむ(批判的でなく)ということが、あの第一段階でなく、最終段階でもあることに気がつきます。聴く・知る・比べるで培った音楽で、心から溢れてくる音楽でもって他人の心からの音楽を、相手の音楽をあらためて聴く、ということになります。そして演奏!自分の音楽観、自分の心から溢れてくる音楽をもとに、それに即した演奏を行なう、ということでしょうか。演奏するにあたっては、単に感性(主観)だけではなく、聴く・知る・比べるで培った客観性を伴った自分だけの音楽を心掛けます。レコードのテンポや批評家の講釈に迷わされることなく、自分の主観と客観に支えられた自分の音楽を形成したいものです。自分自身の歌、しかも単に一人よがりではない、自分の音楽ですよ。ここで気をつけたいのは、人真似と傲慢です。学ぶということは、「まねる」ことから始まることかもしれません。しかし、ここはもう行なう段階であるのです。行なう段階にいたれば、人の真似をするのではなく、心から溢れてくる自分の音楽を主張すべきなのです。ですから、心から歌う、ということが必要となってくるでしょう。ただ、敖慢になってはいけませんから、人の意見や批評は、頭の「客観」の部分で素直に冷静に受け止めておくと良いでしょう。最初の間は、主観と客観のバランスがつかめないかもしれません。主観だけの一人よがりの演奏になってしまったり、あるいは客観だけの死んだような演奏(歌っていない演奏)になってしまったりするでしょう。主観と客観のバランスは、「聴く」〜「行なう」を続けていれば、自然に理解ができるようになりますから、あせらずに続けてください。

 このようにして個人々々の中に音楽がなりたち、そして育っていきます。順序は必ずしも今述べたものになっていないかもしれません。けれども、それぞれの段階が個人の中で体験されていてこそ、本当の意味での音楽が育っていく、と考えて良いでしょう。もし、それぞれの段階のうち、自分の中に不足している部分があれば、今から補っていきましょう。そうして自分自身の中に、確固とした音楽芸術を確立することを目指して下さい。

 これまでの部分を読んでみて、どのように感じましたか? 少し大変だな、と思ってもらえれば大変結構です。それだけ、指揮者には大いなる喜びと同時に大きな責任があるのですから。そして、自分の中でどこが一番不足しているのかを自己診断して下さい。そうして、足りない所を順番に補ってゆくようにして下さい。そして、このような勉強こそが君を、まねごとではない指揮者にする早道、近道、であるのです。

 

4.楽譜の読み方について   【目次に戻る】

 残念ながら楽譜が本当に読める人が少ないのは事実です。音楽大学を卒業した人たちでさえ、本当の意味で読める人が少ないのです。どうしてでしょう。 読み方を習っていないからです。どうして習っていないのでしょうか? 大学の先生たちも習っていなかったから教えられなかったのです。

 さて、楽譜が読めるとは一体どういうことを言うのでしょう。それは作曲者の意図がよく判る、ということなのです。ですから、楽譜が読める人にとっては、あそこの解釈は違うとか、あの人の解釈は間違っているとか、あの人の解釈は時代的に言って正しいとか、そんな風に用いる「解釈」という言葉は不必要になってきます。解釈、解釈とわめいている人に限って、まず楽譜の読めない人だと思って間違いはありません。作曲者の意図が分かっているのに、解釈が違うということはありえないのです。

 では、どのようにしたら楽譜が読めるようになるのでしょうか?これは些か大変です。基礎的な知識と音楽的な経験がどれだけあるか、にも懸ってきますし、その人がどれだけ長時間楽譜だけと共に過ごせるか、という性格にもよります。 まず、楽譜に書かれた記号の全てに意味が見いだせるようにすることから、始めましょう。フォルテとか、ピアノとか、スタカートとかの記号です。そんな意味は知っているよ、とあなたは言うかもしれません。それではもう先はありません。全ての記号には、他の言葉で表現できるような意味があるのです。例えば、悲しみのためのフォルテだから音量よりも表現に気を使ってください、というフォルテであったり、嬉しさを表現するためのピアノなので少し位大きな音量になっても構わなかったり、少しテンポを速くしても良いですよ、という意味のスタカートであったりするのです。ただ、フォルテは大きく、ピアノは小さく、スタカートは切って、というだけの理解では何時までたっても楽譜は読めません。すべての記号(音符や休符も含めて)に、楽典に書かれていること以外の意味を見付けるようにしてみて下さい。言葉を換えれば、楽譜のひとつひとつの記号にはすべて必然性(そこにその記号が存在する必要性)があって、その必然性が納得できた時、楽譜が読めたことになるのです。(勿論、記号がなくても良いのに老婆心の強い作曲者は必要以上に記号を書きますが。) 次に楽譜全体を見わたして、どこが同じフレーズ(あるいはモチーフ)で、どこが異なっているかを、みつけて下さい。あるいはモチーフ(あるいは単位となる小節数)がどのように変化していっているかを見極めて下さい。その中で、作曲者にとってどこが最も大事なのかを楽譜に尋ねます。合唱曲であれば、歌詞がありますから、答を捜すのは比較的簡単ですね。そうして、先程の記号の意味と照らし合せながら、楽譜を理解してゆくことになります。大学であるいは楽曲分析という講座があったかもしれません。死んだようなその講座も、もともとは楽譜を読むためには必要な技術だったのですね。まだまだ、先がありますが、初心者のためにはここで止めておきましょう。それら、つまり「記号に意味付けるをする」、「楽譜全体を見わたして、作曲家がどこを何を強調しているかを訊ねる」ことが出来るようになったら、次を提案いたしましょう。

 もうひとつ、肌で勉強しておくことがあります。それは、テンポの表示や、楽想の表示です。アレグロとか、ラルゴとか、アンダンテとか、ガヴォットとか、ポルカとか、勇壮に、とかは、たくさんの音楽を聞き、沢山の楽譜を読んでみてはじめて理解し、納得できるものなのです。ラルゴとアダージョとレント、知っている人は皆その違いを知っているのですが、知らない人たちは単に「遅い」としか言えないのです。

 アンダンテの曲を、アンダンテとして演奏しているものを、アンダンテであると思いながら聴く、という作業を続けてみてください。他に方法はありません。3拍子=ワルツ、ではない場合もあることも聞き、読み、を続けているうちに理解ができるようになります。

 楽譜を読む練習になるものは、なんといっても古典派、ロマン派です。合唱曲に限らずソナタ(ソナタの意味をあなたは知っていますか)でも何でも読んでいって下さい。合唱曲しか読めない人は指揮者には到底なれませんもの。ポリフォニ−であればわかりやすいのは、パレストリーナでしょうか。合唱曲の場合にはその歌詞の理解も必要でしょうから、楽譜を読む練習とともに、外国語の勉強も行なっていてくださいね。

 注意すべきは、最近の日本人の作品です。ちゃんと楽譜が書けない作曲家がいて、そんな人は楽譜の最後に注意書きが沢山載っています。xx小節はこういう風に演奏すべし、xx小節は〜でも構わない、等という感じです。編曲物も同じです。こんな作品は、楽譜を読む練習にはなりませんから使用しないでください。勉強をするつもりであれば、はやり日本人の作品はなるべく避けて、古典派、ロマン派をやって下さい。

注釈本について: 本来の楽譜(原典版)には何も書かれていないため、一般の人にとっては難解な譜面があります。特に、ルネサンス、バロックの楽譜はそうですね。そこで、色々の人が、ここはフォルテ、ここはピアノ、ここはクレッシェンド、ここでアクセント、ここはムジカフィクタで半音あげて歌う、などと注釈をいれて出版しています。このような楽譜を注釈本といいます。でもね、それを完全に信じてはいけないのです。単純な間違いもありますし、相当に個人的なこのみの混入しているのもあります。だから、本当は自分の力で、自分自身の注釈本を演奏ごとに作成してゆくべきものなのです。でも、最初からその能力の備わった人などいませんから、勉強をするしかないのです。その時、ひとつの見本として、人の注釈本をみればよろしい。そして、自分の勉強が進んで、自分流の判断が少しできるようになったら、注釈本の指示を自分で書換えてゆけばよろしいのです。

 バッハのインベンションというチェンバロ曲がありますが、あの有名なチェルニーが注釈本をだしています(いわゆるチェルニー版といいます)。けれども、現代のバッハ観から言えば、嘘八百の注釈がチェルニー版には満載されているのです。(今だにチェルニー版を用いて弟子を教えたり、演奏したりしている老ピアニストもいます。)同様に、特に、ルネサンス時代の作品の注釈本に誤りを多くみつけられます。気をつける以外方法はないのですが、2)知る段階で身につけた音楽歴史観で、嘘をみつけて正しい演奏を心掛けてください。もし、どうしても、わからない時には、専門の大学の先生にたづねると良いかもしれません。

 昔、全日本合唱連盟の合唱コンクールで、ルネサンスの課題曲に「ムジカ・フィクタは印刷の通りに演奏すべし」という命令が全国に出されました。こんな馬鹿な話が有るでしょうか?演奏団体を馬鹿にした話は他に聞いたことがありません。審査員のレベルが低いからこんな事態になってしまったと思われます。審査員の中にも、楽譜の読めない人が大勢いるのです。注釈本を押しつけるというのは、最も「非音楽的」な行動であることを皆さんは理解して置いて下さいね。

 上級者に一言:正しい解釈で演奏するということが、聴衆に受け入れられるか否かとは別問題となることがあります。どんなに客観性のある演奏でも、日本の聴衆には受けないこともあります。聴衆の方に、正しい認識が無い場合に起こります。でも、ガッカリしないで、そのまま頑張ってください。それは、特にルネサンス、バロックの作品で経験することが多いのですが。

 

5.良くないと思われる実例              【目次に戻る】

 指揮者としてこれは困ったもんだ、という実例をあげながら、自分のチェックをして貰うことにしましょう。

(a)選曲にあたって: 選曲に際して、日本の曲ばかり捜していませんか? それも、以前に自分が歌ったことのある曲に執着を始めたら、もうこれは最悪です。流行している組曲などを手掛けたい、というのもいただけません。日本語の曲と外国の曲とどちらが数が多いと思いますか? 勿論、外国ですね。しかも外国では相当の昔から合唱が行われていたのです。日本ではここ数十年の間に、ようやく合唱曲がつくられるようになっただけです。合唱の美しさ、音楽のすばらしさを語る時に、つまりは選曲する時に、本当に数少ない日本の曲の中で悩んでいるとすれば、指揮者としては大変残念な事です。え? 曲を知らないから外国の曲は選曲できないって? それは君が勉強不足だけの問題でしょう。自分の無知を棚にあげて合唱団員を偏った合唱世界へ引きずり込むことになりますよ。楽譜屋さんに通いつめて、カタログをあさって、作品表も見て、レコードもたくさん聴いて、その中から、今の合唱団に必要なもの、自分の音楽に適合したもの、合唱団のレヴェルに適合したもの、コンサートの目的に適合したもの、などを総合的に判断してはどうでしょうか。え? 合唱団員が外国の曲を理解していないって? 説得すれば良いじゃありませんか。外国語が苦手ですって? 勉強すれば済むことじゃないですか。

 私が日本の合唱曲が嫌いで言っているのではありません。ただ、あまりに「マニアック」な世界が日本の合唱曲の中には存在していて、それは「偏った」音楽世界であると認識しているだけなのです。

 もうひとつ選曲にあたっての注意は、“このみ”の問題です。初めのうちは(心から溢れてくる音楽が少ないうちには)自分のこのみ、だけで決して選曲しないように注意してください。特に若い間は“このみ”は主観だけで構成されて、客観が土台になっていない場合が多いのです。ですから、このみだけで選曲するのは避けた方が良いのです。マニアックなのもいけません。例えば、モーツァルト気違いは聴手としては良いことかもしれませんが、指揮者としては困りものです。非常に偏った、このみだけの指揮者ということになります。なるべく客観的な観点から選曲を始めて、最終的な選択の時にこのみを加味する程度が良いと思います。

 指揮者になろうと心密かに思っている君、選曲のための勉強をすぐに始めて下さい。それだけで1年間はかかるでしょう。すでに選曲の終っている方は、次の選曲のために勉強を始めてください。もう、指揮者を引退するあなた、この勉強は決して損にはなりませんから、音楽という芸術を自分のなかで脹らましてゆくための知識として、どうぞ勉強してください。いろんな曲を知っていること、外国語を知っていることは、基本的な知識としても重要な訳ですから。

(b)曲づくりにあたって: よく見掛けるのは、レコードを聴いてそれを真似ること。最悪です。選曲する時や自分の楽しみでレコードを聴くことは良いですが、いざ自分の演奏曲として決ったあとに、レコードを聴くことは絶対に避けて下さい。いつのまにか、真似になってしまうから。指揮者が、物真似であるとしったら、合唱団員はどれだけ悲しいでしょう。練習のたびにレコードを聴いている指揮者がいるなどとは考えたくないですが、ままあるようです。君はそんなことは絶対にしないで下さい。人の演奏を聴いても真似をしなくなるようになったらしめたものです。そうなったら、演奏のやりかたが分からないからといって、人の演奏を聴くこともなくなるでしょう。人の演奏はあくまでも、自分の楽しみとして聴くものですね。

 あなたたちの先輩指揮者たちは、どうやって曲づくりをしていましたか?きっと、長い期間音取りをして、その次に歌詞をつけて、段々まとまってきて初めて曲想というものをつけてはいませんでしたか? それは、心から溢れてくるものがないばっかりに、合唱団員と同時進行で曲を理解するのに一生懸命だったのです。曲の理解が指揮者と合唱団員は同じレヴェルだったのです。それでは合唱団員がかわいそうです。音取りの段階から、指揮者は十分にその曲を理解し、目標が決っており、それに即した練習方法をとる必要があるのですよ。外来の常任指揮者がいるような学生合唱団では、学生指揮者とその外来指揮者との間に、歴然とした実力の差がありますね。この差は、初めから曲を理解しているかそうでないかに発しています。

 練習中に「それでは、もう一度」を連発する先輩指揮者がいませんでしたか? 何のために、もう一度練習するかがわかっていない指揮者はこの語句を連発します。「私には、今の練習の歌が良いか悪いか分らないので、とりあえず、もう一度歌ってみてくれませんか?」というべき所を、それでは格好がつかないから「それでは、もう一度」と言っているのです。上級者ならこう言うでしょう、「ここの部分がxxになっているから、もう一度、○○という風になるように歌ってみてください」、と。つまり、練習目的がはっきりとしていて、その目標に達していない場合に、もう一度、となるのです。もう一度言いますが、曲を理解していないうちに練習が始まると意味のない「もう一度」を繰り替えすことになります。意味のない練習ほど合唱を駄目にしてしまいます。

 物真似や無目的練習を回避するには、曲の理解、そしてそれを心から歌えること、つまり心からの音楽が不可欠ですね。自分の理解している音楽、目標としている音楽、と掛け離れた演奏を合唱団がしている場合にだけ必要になるのが(あるいは、とても旨く歌えたので、という場合もありますが)、「もう一度」という言葉です。訳も分らない指揮者は自分の中で曲が理解できるまでは、音程、歌詞、子音、発声、ハーモニーばかりを称えています(コンクールの地方大会審査員のように)。でも、本当は音取りの段階から、音楽的な事柄を加味することはたやすいことなのに、です。

 それでは、どうやって曲を理解するのでしょう。答のほとんどは、楽譜に書いてあります。ところが、前にも述べたように多数の先輩指揮者は楽譜が読めなかったのです。そうなんです、楽譜が読めていないのです。だってフォルテはわかるし、モデラートも知っているし、音程だってわかるし、ハーモニーも判るけれど、とほとんどの人は言っているでしょうね。でも、それらの記号知っている、というのと、楽譜が読める、楽譜が判かっている、という間には大きな隔たりがあることは、皆さんはもう知っています。スラーひとつを例にとっても、それがフレーズを表すときもあるし、レガートを表す時もあるし、アクセント(音価としての)を表すこともあるのですね。でも、それを知らない人、誤った判断をする人、ひたすらにレガートと信じている人、などが先輩指揮者の中にもたくさんいて、それでも自分は楽譜が読めるときっと信じているのでしょうね。同じテンポでも、アンダンテであったり、モデラートであったりすることがあり得ますよね。また、テンポはメトロノーム記号だけに頼る指揮者もいて困ります。ワルツ=3拍子と信じ込むのは勝手ですけれど、それでは指揮者にはなれません。ルネサンスの時代のムジカフィクタも読める力がないと理解できません。スタカートも、時代とその音楽の種類によって扱い方が全く異なります。さあ、知る段階で勉強してきた知識と音楽歴史観が重要になってきました。楽譜を本当に読むということに力を注いでください。それが「もう一度」を減らす唯一の方法です。

(c)傲慢ということ: 指揮者にとって、持合せていない方が良いものとは一体なんでしょう。それは前にも書きましたが、傲慢、です。

 傲慢、ということについて考えてみましょう。それは、音楽は指揮者だけで造るものではないということです。当り前、ですって? でもそれが当り前ではない指揮者が多いから困っているのです。誰が造るのでしょうか? 指揮者と合唱団員(とピアノ演奏者)なのです(ピアノ伴奏ではなく、あくまでもピアノ演奏者だよ)。指揮者の責任は、自分の音楽を彼等に押し付ける前に、彼等の持っている総ての音楽性を引き出すことから始まります。そうしておいて、その上に自分の音楽を上乗せしたり、包みこんで、音楽を作り出すのです。大勢の先輩指揮者たちが自分だけの音楽を合唱団員に押し付けてきたような馬鹿な真似だけは決してしないように気を付けてください。合唱団員もピアノ演奏者も自分の思うままに動かしたいと思った瞬間から、彼等は音声発生装置になりさがり、あなたは機械を相手に音楽ではない何者かを作りはじめ、彼等にとっては拷問(彼等がそう感じていようといまいと)が始まるのです。では、どうしたら彼等の音楽性を引きだせるのでしょうか? 答は簡単です。彼等の歌ごえを注意深く聞けばよいのです。音楽として聞けばよいのです。あの第1段階でもあるし、第4段階でもあります。聞いているうちに、彼等の中の音楽をあなたは聴き取れるようになるでしょう。それを前面に押し出してあげさえすれば良いのです。そして、あとはあなたの主観をそっと添えるだけ。

 また、少しものが分りかけてくると、ついつい「自分が一番だ!」と思いたくなるものです。もちろん、主観の、個性の主張こそが、音楽の表現ではあるけれども、音楽において傲慢になってはいけないのです。(組織の運営においてはワンマン経営も時に必要ですが、音楽においては!)。自分一人の演奏であれば、どんな演奏をしても勝手です。でも、合唱はアンサンブルですから、自分の個性のお仕付けになってしまってはいけません。団員の音楽性を引出して、それを自分の音楽でくるんでゆくという風にしたいものです。自分だけの音楽のお仕付けは、マスターベーションといえるでしょう。(逆に、合唱団員の中にマスターベーションを好む人が多い場合があります。そんな合唱団ははやく止めた方が良いでしょう。)

(d)指揮法の教則本について:色々な指揮法に関する教習書が出版されていますが、まず役にたちませんでしたでしょう。形骸的な事柄しか記述されていない、または形骸的な事柄しか読者が読みとらない、からです。本当に表現したい音楽が頭の中に、胸の中に溢れている人にとっては、その音楽をどのような表現で合唱団員に伝えるかという段階で、その教習書はあるいは役に立つでしょう。でも指揮の初心者にとっては、心から溢れてくる音楽が足りないのですから、つまり伝えるものが何も無い訳ですから、形だけを覚えても役にたちませんでしたでしょう。そうです、指揮者にとって最も大事なことは、心から溢れてくる音楽、でした。ですから指揮者の勉強というものは、指揮法というテクニックより先に、心から流れてくる歌いたい”何者か”をどうやって育て、成長させていくか、ということについて始めなければなりません。頭や心に音楽のない人間が、いくら指揮法の教習書をみても意味がなかったのです。(心から溢れてくる音楽は、どんなことをしても伝わるものです。)結局、指揮法の教則本は、そのことを指摘しないかぎり出版そのものが無意味であったのです。購入したひと、残念でした。

 声楽の教科書にしても同様です。歌うための基本的な姿勢についての項目を見てごらんなさい。たくさんの基本姿勢についての注意が書いてあるでしょう。そんなものを全部守ろうとしても、かえって肩が凝るだけです。本質的には、胸郭をあげて歌う、ということを守ろうとすれば、きっとその教則本にあるすべての注意を全うすることができると、私は思っています。教科書、教則本は読まない方が時間をセーブできます。その時間に他の勉強をした方が良いでしょう。どうしても分らない、何かヒントが欲しい、そう思ったときには紐解くことも良いのかもしれません。

 この、今あなたが読んでいるこの小冊子はどうでしょう。これも、頑張ろうと思っていない人には、単に「厭味」だけの、批判めいた読物にすぎないでしょうね。でも、あなたは今から指揮者として頑張っていこうというわけだから、厭味も気にせずに、とにかくがむしゃらに、色々なことに食らいついてくださいね。

 

6.その他のことなど    【目次に戻る】

 勉強を実際に始めてみると判からないことがたくさん出てくることでしょう。それについては、この小冊子で触れることはできませんから、先輩や先生や直接わたしに聞いて下さい。この章では、少しだけ気をつけておいた方が良いことを述べておきましょう。

(a)ピアノについて: 指揮者は本質的には「音楽」のみを溢れさせていれば良いのですが、実際の練習にあたっては、いくつかの本質的でない事柄も知っておく必要があります。そのひとつがピアノ奏法です。いえ、あなたが実際にピアノが上手に弾ける必要はありません。あなたが上手に歌える必要がないのと同様にです。

 ピアノの音色はそのタッチ(指が鍵盤にふれる時の力の入れかた、抜きかた、などを一言で言ってしまう言葉)によって様々に変化します。同じピアノなのに演奏者が変ると音が変ってきます。このタッチによる音色の変化が判ると、ピアノ演奏者への指摘が大変楽になります。いや、わからないと指導ができません。ペダリング(どのペダルを、いつ、どのように(ベタっとか、小刻みに、とか、半分位とか)踏んで、いつ離すか)も知っておくと良いでしょう。これらのこと以外にも知るべきことはたくさんあります。もし、あなたがピアノを習ったことがない場合には、一番楽な方法は、ピアニストに頼んで音を聞かせてもらいながら勉強することです。恥しがらずに、ピアニストにききましょう。

 ピアノに関しては、もうひとつ問題があります。それは、アカペラでなく、ピアノと合唱の組み合わせの曲を演奏するときに、ピアニストにどうやって演奏をしてもらうか、です。ピアニストは、一般的にいって「リズム音痴」です。リズムがとれない、という意味ではありません。彼等は右手で2拍の中に7つの音を、左手で5つの音を弾くような芸当をもっています。しかし、管楽器の人があたり前にもっているようなアーティキュレーションに関する感覚を持っているピアニストは稀ですし(チェンバロも弾く人は別として)、長い音譜にビートが存在するというようなことも理解できません(楽器の特質かな?)。歌詞のアクセントや、歌詞の合間のブレスのリズムも習っていません。彼等にとっては、それまで、タッチ・音色、ディナミク(音量の扱い)やアゴギク(速度の扱い)に神経が行っていて、ヨーロッパ騎馬民族のリズムなどといったことに興味を持っていなかったのです。つまり、ピアニストにはリズム音痴が多いのです。だから、本当のリズムを、やさしく示してあげることが大切です。どんなに客観的で正しい主張でも、ピアニストにも誇りがありますから、優しく、優しく示してあげてください。

(b)指導者について: 誰かに指揮を習う場合、あるいは意見をしてもらう場合に、気をつけなければならないことは、その人自身が音楽を成りたたせるための経験を十分にしてきているかどうか、ということです。中には、聴く〜行うという段階を経験していないまま先生になっている人がいるのです。ですから、心からの音楽が溢れてこないような人の意見を鵜呑みにしていると、時々誤った方向へ連れていかれることもあります。気をつけてください。

 最もひどい例は、コンクールの審査員にこのような人たちが多いことかな(特に、地方で)? どんなコンクールでも、どれだけ音楽的な素晴らしい演奏をしていても、審査用紙に発音が悪い、発声が悪い、音程が悪い、としか書けない(言えない)審査員や批評家がいるでしょう。中には、バロック以前の曲を演奏しても、それを全く理解できもしない審査員がゴロゴロといるのです。ラッススとヴィクトリアの音楽性の全く異なることさえも知らないで、審査員を引きうけてしまうのですから、お笑いではあるのですが。リュッケルトがどの時代のどこの詩人かもきっと知らないでしょうね。そのような人は、発音や発声や音程の悪さだけしか判断できないので、そうなってしまうのです。心から音楽が溢れている人に是非審査してもらいたいと願うのですが、人材不足でどうにもならない現状です。そのような審査員の考えることは、演奏者自身が十分に、初めから判かっていることです。音程だとか、発声だとか、発音だとかの良し悪しなど、審査員に言われなくてもあなたにだって判るでしょう。それなのに彼等はそういう事しか言えないのです、実に哀れなものです。ついには講評の時間に発音のレッスンを始める審査員、こんな講評だったら聞かない方が得策です。指揮者が「もう一度」を連発するのと同じなのですから。コンクール審査員批判になってしまいましたが、要するに、こんな審査員のような指導者につかないようにしてください。そのためには、コツがあるのです。

 演奏を直接、またはテープで聞いてもらって、「今のモーツァルト(あるいはラヴェルでも、パレストリーナでも、シュッツでも、何でも)は、モーツァルトになっていましたでしょうか?」と、質問するのです。見当違いのことを言い始めたら、例えば、音程とか発声とかバランスとか、あなたにも十分分っているようなことを言い始めたら、その人に指導を受けるのは止めにすることですね。録音が悪いから分らないなどと逃げるのはもう最悪。

 そう、音楽にとって基本的なものは、発声でも発音でも音程でもハーモニーでもないのです。え?って思うでしょう。でも、そうなのです。できれば発声は良いにこしたことはない。発音も歌詞がよく分かったほうが良い。正しい音程で、よくハモった方が良い。これらのテーマは本当で、そして正しい。でも、それだけに執着していても音楽には成らないのです。つまり基本的なものではないということです。それでは、何が基本的なことでしょうか。答は簡単なことですが、ご自分で見付て下さい。(このパラグラフが、私のあなたに伝えたい最も重要なことかもしれません。)

 指導者、なかなか良い人は近所にはいませんね。音楽そのものではなく、音楽学的な事がらはあなたの周辺におられる大学の音楽教室の先生たちにだずねるのが良いでしよう。レコードや楽譜、書籍を大量に持っておられる筈です。でも、ほとんどの場合、彼等は演奏家というよりも学者−例えば、皆川達夫氏のように−あるいは教育者ですから音楽そのものはたずねない方が無難でしょう。(本当の音楽家がおられたら最高ですが。)音楽学的な事柄については、それらの先生たちに根ほり葉ほり聞いてあげてください。

(c)発声法について: 発声について知っておかなければならないことは、ひとつだけ。「ひとりひとり持っている楽器(体)が異なっている」ということです。それを理解して、ひとりひとりが自分の楽器をよく知ることができれば、発声の指導も終りです。あとは、その本人にまかせる他はありませんから。逆に考えれば、ひとつの方法、ひとつの方式だけで、大人数の団員に発声の指導なんて不可能であるということが理解できます。呼吸法を例にとってもおわかりでしょう。姿勢にしても同じです。その人に適した方法を、それぞれ指導してゆく必要があります。ただ、前にも書きましたが、「胸郭を挙げる」ことを練習させることは何かにつけて将来役にたつことでしょう。

 発声(発音を含めて)をどのように指導したら良いか迷っている場合には、指導をとりあえず中止して、どなたか声楽家に相談して下さい。

 アマチュアの合唱団で発声を向上させるためには、10年位の長いスパンで考えていかなくてはなりません。ですから、10年程度でカリキュラム、スケジュールをたてて(相談しながら)、それから実行に移すと良いでしょう。学生合唱団の場合にはそんな呑気なことはいっておれませんし、週に4回も5回も練習するのでしょうから、10年を2年で遣りおおせるのでしょう。

 でも、上に書いたことは合唱指導者としての場合です。指揮者の場合には、自分の欲しい音色を作ってゆくべきです。ヴォイストレーナーのいる合唱団では、発声を彼等に任しておいてはいけません。彼等、声楽家は“一般的に良い”声の指導をしてくれますが、その曲のこの部分に必要な声質までは理解しません。パレストリーナもコダーイも知らないでしょう。ベル・カントを教えてくれるでしょう。しかも、イタリア語で。正しく響く「ア」は教えますが、悲しく聞える日本語の「ア」は教えません。

 声楽家は、自分の得意とするジャンルを持っています。それ以外は、歌いませんし、無理をすると声をこわしてしまうでしょう。合唱のように、様々なジャンルの歌を歌う楽しみとは別の方向なのです。彼等に、芸能山城組やバリ島のケチャックダンスのような指導を頼むのは間違いであるということは誰にもわかります。同じようなことは、カンツォーネ専門の人に、ドイツリートの指導をお願いするようなものです(本物の方なら教えてくれる筈なんですが・・・)。だから、合唱団のようにいろいろな歌を歌う場合には、一人のヴォイストレイナーに教えてもらえることがあるとすれば、ごくごく一般的なことに留めておくにこしたことはありません。自分の欲しい音色は、あなた自身が団員に要求してください。

 よくコンクールの全国大会で、非常に訓練された声のよい合唱団なのに受賞できない団体がありますね。その合唱団は、発声に関する勉強や研究を「入口」で止めてしまっているのです。響けば良いと思っているのか、もしくはコントロールされていれば良いと思っているのか、勉強を止めてしまっているのです。いや、上手下手で言えば、本当に上手なのですよ。ソプラノのソプラノ、ああ良いアルト、バタ臭いテノール、そして深いバス。でもね、どの曲を聞いても同じ音色、ひとつの曲のどの部分を聞いても同じ音色。楽しい時も、悲しい時も、老人の心も、少女のあどけない揺らぎも、みな同じ発声、同じ音色。1曲きけば、帰りたくなってしまう。旨いけれど、厭きてしまう。そして、重大な事実=それは指揮者のせいなんです。指揮者が、その音質で満足してしまっているから。お年寄りの指揮者に多いパターンです。

 音色に関する要求は、合唱練習の途中にどしどし行なって下さい。楽譜に音色に対する要望がきっと書き込まれている筈ですね。

 

− とりあえずの終りに −

 思っていることを文章にするのはなかなか大変です。レコードも楽譜もなしに音楽の話をするのですから、なかなか旨くゆきません。なるべく新しい版を早急に作成する予定です。とりあえず、今回はこれを終りにしておきます。

 


このページの目次に戻る
声楽・合唱の畑に戻る / トップページに戻る
ご質問、ご意見をお寄せください。

(お願い)この資料の配布は自由ですが著作権は私にあります。      なお、コピーする場合は、必ず全部分をコピーして下さい。       また、引用される場合は      http://www.mann1952.com と、 URL を明記して下さい。